筆者のザーラ・イマーエワ女史は、
『春になったら』&『子どもの物語にあらず』(DVD・VHS)3500円+送料500円
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 という映像作品の監督です。
 
 北オセチアの事件については、
「極めて重武装の一団がどのようにして、戦略空軍基地、ロケットおよび装甲
 戦車部隊のひしめく全く遮蔽物に欠く平原部を数10キロにわたって移動できた
 のであろうか?」
「何故にグルジア・オセチア間の対立激化を背景とする昨今の地政学的矛盾先鋭
 化の時期を選ぶようにこの事件が起きたのか?」
などと幾つかの疑問点を述べている。なるほど、これらの諸点には疑念も生じる。

 しかし、
@「ロシア報道機関以外、信じ込む者がいないような、バサーエフによる
 「犯行自認」」
A「学校占拠テログループ中には、チェチェン人もイングーシ人もいなかった」
Bなぜなら、「ワイナハ(チェチェン・イングーシ)」には、「アダートと呼ば
 れている血讐と父権制によって統御される内的な不文律によって生きている」
 からだという。
C今回の事件後、オセット人とイングーシ人間に民族対立の激化が起きなかった
 のは、「オセット人が、隣接する民族たちと同様の『掟』に生き、隣人の社会
 組織を良く心得ている」からだという。
 
@について、
 バサーエフの犯行声明は、カフカス・センターというチェチェン独立派系の
サイトに発表されたので、てっきりそうだと思っていました。
しかし、筆者の言うように、バサーエフではない、とも断定できないと、
今の所、思っています。

Aについて、
 犯人グループには、チェチェン人はいなかったとは思えません。
 アンナ・ポリトコフスカヤの記事では、アラブ人はいなかった。チェチェン人
とイングーシ人だけだったと書かれていましたので、てっきりそうだと思ってい
ました。しかし、筆者の言うように、チェチェン人はいなかったとは、断定でき
ないと、今の所、思っています。
(「死を賭して報じるチェチェンの悲劇」アンナ・ポリトコフスカヤ
 (月刊現代11月号)

犯人グループと交渉し、乳幼児26人を解放させたイングーシ共和国のアウシェフ
元大統領は、「犯人たちの中には、チェチェン人もイングーシ人もいなかった」
と証言していましたね。う〜ん、どうなんでしょうか、今の所、分かりません。

Bについて、
 「誓い」でハッサン・バイエフは、
「私達の世代がロシアで教育を受けて、ロシア人の友人がいるのとは違って、
この若いチェチェン人世代は、ロシアから受け取る物は死以外に何も知らない」
と書いています。
 ソ連時代、チェチェン人に対する偏見・差別・迫害はあっても、チェチェン人
と他民族は、ソ連国内を相互に行き来し、交流していました。
 ソ連の数少ない肯定面は、教育でした。
 現在のチェチェンでは、もう長年まともに学校教育も行われていません。
次の世代は、民族の伝統すらきちんと受け継ぐことなく、報復の怨念のみ肥大化
させ、成人していくとしたら、従来の民族的伝統を必ずしも引き継いではいない
と思います。
事実、年配の穏健派イスラム教徒(スーフィズム)と対立し、イスラム原理主義
(ワッハーブ派)に傾倒する若者が多く出現したし、親子間での勘当もあったと
聞いています。

Cについて、
確かに、事件後、オセチア・イングーシ間での対立激化には至ってはいません。
それは、治安機関強化による、検問強化とか、過去の紛争をほとんどの民衆が
繰り返したくないと考えているからでしょうね。


「ホメオスタシス対立」とは、
「二つの異なる価値観の間の対立であり、価値観の異なる社会機構の間の対立で
 ある。ホメオスタシスは、外的変化に対抗して内的な恒常性を維持しようと
 する機序を指す医学用語である。もしチェチェン社会を硬質の結晶のような
 構造の社会と見て比較するなら、ロシア社会は常に変態(メタモルフォーズ)
 を遂げているいわばゼリー質とでも言って良い社会である。それは国境線が
 唯一この無定形の塊の拡散を防ぐ、目先の利益追求型の国家でもある」
と述べている。
 こういう要素も確かにあるとは思う。
しかし、チェチェン戦争を定義するのに、この規定が第一の、主要な規定だと
言うのであれば、それは明確な誤謬だと思う。
 異なる価値観の間で、常に必ず戦争が起こっている訳ではないからだ。

「ホメオスタシス対立としてのチェチェン戦争」ザーラ・イマーエワ(「週刊読書人」10月29日号)