チェチェン戦争を、チェチェン人側から描いた作品は、日本語で読めるものと
しては、この本ただ一冊だけだと思う。

 アンナ・ポリトコフスカヤの本も素晴らしいルポルタージュだと思うが、
この本は、チェチェン人側から描くという根本的な視点の相違がある。

・著者が少年の頃、父親がチェチェンの廃村に連れて行く。スターリンによる
 強制移住によって、廃村になった村々。谷底へ多くの人々が投げ込まれたと
 いう。その谷底を覗き込む著者
・筆者の姉が略奪婚に遭う。略奪婚という風習
・負傷し、病室のベッドで並んで談笑する両軍兵士の姿
・ある村を包囲するロシア軍、掃討作戦開始前に、村の長老達とロシア軍司令官
 とが交渉を持つ、その具体的やり取り
・著者とロシア軍医師とが、相互に両軍の負傷兵を治療するという医療協定を
 結ぶ場面
・バサーエフなどの野戦司令官を手術する場面
・若いロシア新兵三人が、著者を頼って、逃亡し、ロシアの「母親の会」と連絡
 を取り、母親がチェチェンまで迎えに来る場面
・ロシア軍検問所で契約兵に捕まり、殺される寸前の場面
・捕虜となったロシア人医師と協力して医療活動をする著者。そのロシア人の
 逃亡を手助けした筆者の行動
・その捕虜と兄弟を交換するはずだった野戦司令官は、著者を処刑しようとする
 その処刑寸前のリアルな場面
・著者が捕虜逃亡を手助けしたことを知っているロシア軍司令官は、著者の
 村への攻撃を中止してくれる場面
・著者の海外脱出を命懸けで手助けしてくれたロシア軍大佐

 戦間期、バサーエフによる隣国ダゲスタン軍事侵攻前に、ロシア軍による空爆
が始まっていたことを初めて知った。

「95年から96年にかけて新生児の四分の一に奇形が見られた」
「ロシア軍がなんらかの化学兵器を使用したのではないか、と私は疑っている」
化学兵器か劣化ウラン弾の影響かもしれない。

 著者は、マスハードフ大統領に対して、批判すべきことは批判している。
「マスハドフ大統領は立派な人物であるが、強盗団や私兵を擁する野戦司令官達
 に対し余りにも無力に思われた。明らかに内乱を恐れて、犯罪者を逮捕して
 裁判にかけるような、厳しい手段を取ることができなかった」
「チェチェン国民はマスハドフ大統領にむかって、誘拐犯罪者の正体を明らかに
 し、彼らに戦争を宣言するよう要求した。しかし大統領は何もしなかった」

「わたしたちは生活を立て直すためにみんな忙しく働いていたために、危険を
 告げる警戒警報を―戦争直後すでに発生して、いまや増加の一途をたどる誘拐
 などの犯罪を無視しがちだった」
「共和国全土に病気が急速にふえていった。戦争中に見事に保たれていた国民の
 体力と精神力が、戦争が終わるとともにたちまち瓦解したかのようだった」
と、戦間期におけるチェチェンの混乱を立て直すことができなかった自分達を
主体的に反省しようとはしている。
 しかし、もっともっと突っ込んで反省して欲しかった。
何故なのかを、政治的、経済的、思想的に反省して欲しい。

「モスクワに買収されていたこの反政府指導者が、バサーエフをそそのかして
 ダゲスタンを攻撃させ、かくしてロシア軍をチェチェンに進攻させる口実を
 作り上げたというのが、私達チェチェン国民が得た結論だった」
 だからどうだと言うのだろうか。ロシア側による限定的な空爆は始まっていた
にせよ、地上侵攻をチェチェン側が先に行ったということに何ら変わりはない。
第一次チェチェン戦争を終結させた96年8月の「ハサビュルト和平合意」を
チェチェン側が先に破ったという歴史的事実は基本的に何ら変わりはない。

 モスクワ劇場占拠事件では、犯人グループのリーダーと携帯電話で説得活動を
試みている。しかし、うまくはいかなかった。
「私達の世代がロシアで教育を受けて、ロシア人の友人がいるのとは違って、
この若いチェチェン人世代は、ロシアから受け取る物は死以外に何も知らない」

 最後に、米国に亡命した著者は、自分の子供達に、故郷のあの廃村、谷底を
見せてやりたいと願う。
 チェチェン民族の民族としての、次なる世代への民族の伝統を伝達することも
著者の使命の一つとなった。


・4章:帰郷、そして結婚
「アフガニスタンとタリバン政権支配下の女たちと同じように、チェチェンの女
 たちも弾圧されていると考える人がいるかもしれない。しかしそれはまちがっ
 ている。チェチェンの女たちは高い教育を受け、自分の専門職をもっている。
 教育はソビエト時代が残してくれた最良の遺産である」(P.133)

 ドゥダーエフがチェチェンを自由貿易圏にすると宣言してから、トルコやUAE
やパキスタンから商品を買って戻り、商売をやる人も多かったそうだ。
 ソビエト社会では長年にわたって商取引は犯罪だった。

・5章:開戦前夜
 第一次チェチェン戦争が始まる時、筆者はグロズヌイの病院に勤めていた。
グロズヌイの病院に「残っている入院患者の大半は年老いたロシア人」だった。

・6章:破壊された病院
 筆者はグロズヌイ郊外の故郷アルハンカラの病院に勤めていた。95年1月、
「多数のロシア人をふくむ難民の群れ」が押し寄せてきた。
ロシア軍はアルハンカラへの攻撃を始めた。攻撃ヘリが頭上を飛んだ。
「長老たちはヘリコプターに反撃しないよう住民に厳重に注意した。そして命令
 違反をふせぐために監視人をおいた。」「『彼らはわしらを挑発している。
 この村を攻撃する口実をつくろうとしているのだ』と長老たちは言った」
「『長老たちは武器を所持する若者たちに町を退去するよう命じた』」
 その上で、ロシア軍司令部に出かけ、村にはもう一人も戦闘員のいないことを
訴えた。ロシア軍の将軍は、砲撃を止めることを約束した。しかし砲撃は止まず、
更に激しくなった。
「年寄りを説得して家を退去させるのは不可能に近いことだった。老人たちは、
 死ぬならせめて自分の土地で死んで、先祖とともに葬られたいと言っていた」
「戦争中に殺された家畜は、祭儀にしたがって屠殺されていないので、大量の
 肉がむだに捨てられた」
 村の病院を破壊された筆者は自宅で治療を始めた。ロシア軍は双眼鏡や暗視鏡
で筆者宅の出入りを監視していた。チェチェン戦闘員を治療していることを把握
していた。そして武装ヘリのミサイルが筆者宅を攻撃した。

・7章:天国と地獄
 グロズヌイ「市中にはまだ少なくとも十万人の市民が残っていた」
 筆者はアルハンカラ南東25キロのアタギの病院で働き始めた。
ロシア軍兵士も運び込まれた。ロシア軍兵士をロシア軍が運んで来る場合もあっ
たが、チェチェン兵士が連れてくることもあった。病室ではチェチェン戦闘員の
負傷者の隣のベッドにロシア兵負傷者もいた。ロシア国内の家族に連絡を取り、
迎えに来ることになった。しかし、ロシアのテレビ放送では、チェチェン人が
ロシア人捕虜を虐待していると報道されていた。
「長老たちは、兵士が<契約兵:コントラクトニキ>でなければ、食物を与えて
 もよいと言った」コントラクトニキは、
「チェチェンで戦うために刑務所から釈放された犯罪者が多い」「彼らにとって
 チェチェンは罪に問われることなく略奪や強姦を行える格好の場所だった」
「ロシア軍が連れてくる負傷兵の状態があまり重態でなければ、治療が終わる
 まで輸送部隊に病院の外で待機するようつたえた。そして病院の警備員を通り
 に配置して、待機中のロシア兵が狙撃されないよう注意させた。ときには、
 ロシア軍の負傷兵の安全を確保するために、わたし自身が白衣姿で兵員輸送車
 の屋根に立ち、彼らが村からでるまで警護にあたることもあった。ロシア軍の
 車両に乗っているわたしを見て、連邦軍に協力する裏切り者だと断定する者も
 いた」

・8章:若いロシア兵たち
 95年5月、「ロシア軍病院と協定をむすび、民間人の負傷者はもちろんのこと
 双方とも相手側の負傷兵の治療もすることに同意した」
「ロシア軍当局は脱走兵の増加に憤激と困惑を感じていたから、チェチェン人は
 捕虜を奴隷にするとか去勢すると言って若い兵士に恐怖心を植えこんでいた。
 脱走兵がチェチェン人の家で発見されると、脱走の罪で直属の上官によって
 銃殺されることがよくあった」
「その家の所有者も《捕虜》を収容していたかどで処刑されることになる。一般
 のロシア市民であっても、チェチェン人の家で発見されると処刑されることが
 あった」

・9章:救うべきか、見捨てるべきか
「わたしに言わせれば、ラドゥーエフは、チェチェン人を冷酷無残なテロリスト
 国民とするロシアの宣伝を正当化する手助けをしているにすぎない」
「これまでラドゥーエフの暗殺は、チェチェン人によってさえも何度も試みられ
 ていた」
「血の復讐はチェチェンの一つの生き方だった。何世紀にもわたって行われて
 きた正義を実現する伝統的方法、共同体が犯罪に対処する方法である」
「加害者には犠牲者の家族に賠償金をはらう義務が生じる。あるいは加害者が
 被害者側の家族の養子になることもある。『わたしは息子を失ったのではなく
 ふたたび息子を見つけたのです』と母親は言うのである」
「チェチェンでは、共同体の平和を維持するために女たちが重要な役割を演じる
 もし女がかぶっているスカーフをとって抗争する者のあいだの地面に投げた
 なら、男たちは即座に闘いをやめなければならない」

・11章:グロズヌイ脱出
 グロズヌイ市立第九病院にロシア軍の傭兵達が乱入し、医師と看護婦を人質に
 取った。彼らは、双方と交渉し、自ら人間の盾となり、ロシア軍検問所まで
 送った。
「言うまでもなくわたしはチェチェンの独立を望んでいるが、この殺戮行為には
 吐き気を覚えた。平和に生きること以外になにものも望まない大勢の市民たち
 紛争の双方に立つ権力に飢えた指導者の祭壇に捧げられる罪のない犠牲者たち
 こうした人びとに戦争が加える悲惨さをわたしはつぶさに見てきた」

・12章:瓦礫の中の復興
「わたしたちは生活を立て直すためにみんな忙しく働いていたために、危険を
 告げる警戒警報を―戦争直後すでに発生して、いまや増加の一途をたどる誘拐
 などの犯罪を無視しがちだった」
「共和国全土に病気が急速にふえていった。戦争中に見事に保たれていた国民の
 体力と精神力が、戦争が終わるとともにたちまち瓦解したかのようだった」
「95年から96年にかけて新生児の四分の一に奇形が見られた」
「ロシア軍がなんらかの化学兵器を使用したのではないか、と私は疑っている」
「90%の男が失業し、医師や看護婦の半数は共和国を去っていた」
「男女の役割が逆転した。チェチェン人男性にとって、自分の家族を養えない
 ことぐらい屈辱的なこともなかった」
「ラドゥーエフは、やってもいないテロ行為を自慢することさえあった」

・14章:メッカ巡礼
「ワハビと呼ばれる連中がチェチェンで面倒を起こしはじめていた。
 彼らはチェチェンの伝統がコーランに反すると主張している」
「ワハビは自分たちの運動にチェチェン人をひきこむために、私達の常識では
 多額と思われる金―月に百ドルから二百ドル―をチェチェンの若者に与えて
 いるという話を聞いた。長老達はこうした動きを懸念して、村々から退去する
 ようワハビに命じたが、家族を養う為に単独で彼らの活動に加わる若者も少な
 くなかった」

 <メッカ巡礼の体験で学んだこと>
・「ソビエト政府が私達に母国語の使用を禁じた為、多くのチェチェン人が
  いびつなチェチェン語しか知らずに成長することになった」
・かつてのイスラムの当時世界最先端だった医療技術水準、医療倫理規範

・15章:人心の荒廃
 筆者はマスハドフ政府検察庁で語った。
「誘拐や殺人が横行し、石油泥棒がごろごろしている。そうした犯罪の解決に
 努力すべきではありませんか?」
「大統領警護隊は横行する誘拐や麻薬取引、マネーロンダリングなどの犯罪を
 厳しく取り締まる為に編成された機関」
「世間では政治がかつてなく大きな話題になっていた。武装強盗団、発砲事件、
 誘拐、そしてモスクワから流れてくる最新のデマ情報」
「マスハドフ大統領は立派な人物であるが、強盗団や私兵を擁する野戦司令官達
 に対し余りにも無力に思われた。明らかに内乱を恐れて、犯罪者を逮捕して
 裁判にかけるような、厳しい手段を取ることができなかった」
「バラーエフは生まれながらの人殺しだ。彼の手下も、いずれも人を殺した為に
 血の復讐を宣言されている無法者で、復讐者の追及から逃れる為にバラーエフ
 の仲間になっていた」
「バラーエフはロシアの情報機関から金を貰っている、というのが衆目の一致
 する所だった」
「バラーエフの家族も彼を激しく非難し、彼を殺した者が現れても一族は血の
 復讐の権利を一切放棄すると、モスクの中庭で表明していた」

・16章:戦争の再燃
 1999年夏、
「ロシア軍部隊が続々とチェチェン国境沿いに集結していたし、ロシア軍用機が
 共和国の上空を侵犯しては、ロシア軍の代弁者が《ならず者の集結基地》と
 呼ぶ地点を攻撃していた。マスハドフ大統領は急進的な軍の指揮官達を抑える
 ことができないようだった。バラーエフのようなギャング団を逮捕することも
 サウジアラビア人の過激な野戦司令官ハッターブにチェチェン退去を命じる
 こともできそうになかった」
「隣国ダゲスタンの地方警察が、イスラム過激派をチェチェンへ追放する作戦に
 乗り出していた。チェチェンでは反マスハドフ勢力や犯罪者集団がイスラム
 過激派の活動を歓迎したが、ダゲスタンのイスラム教指導者は、自国のイスラ
 ム教徒の急進化に脅威を感じ、警察による取り締まりを支持していた。それ
 以前にもチェチェン国内には、ダゲスタンの反政府グループとともに多数の
 ワハビ急進主義者が逃げ込んでいた。彼らはウルスマルタンを拠点に活動し、
 ゆくゆくはダゲスタンの親ロシア政権を打倒して、北コーカサス国家連合を
 樹立することを目論んでいた」
「いまでは誘拐ビジネスがまるで伝染病のように蔓延していた。バラーエフの
 ようなギャングが、ロシアの保安当局と結託」
「誘拐による犠牲者の80%がチェチェン人だった」
「6月になると、チェチェン国民はマスハドフ大統領にむかって、誘拐犯罪者の
 正体を明らかにし、彼らに戦争を宣言するよう要求した。しかし大統領は何も
 しなかった」
「バラーエフが私の友人のロシア人ジャーナリストの誘拐を企てた時には、私も
 モスクワが誘拐ビジネスに関係していることを確信した」
「もし人道的活動家やジャーナリストがチェチェンに来るのを阻止したいと思う
 なら、彼らを二、三人拉致すればいい。これが最大の効果を発揮する。あるい
 は二、三人殺すのも効果がある。かくして、巧妙な陰謀が成功するにつれて、
 これまで多少なりともチェチェンの独立に同情していた国際社会から、私達は
 徐々に疎外されていった」
 1999年8月2日、
「バサーエフが、私を含めて大方の人が致命的失敗と見なす行動に走った。隣国
 ダゲスタンを攻撃したのである。当時ダゲスタンでは、主要な民族集団や宗教
 的過激派や、犯罪者集団まで入り混じって権力抗争を続け、国内が分裂・混乱
 の危機に瀕していた。共和国予算の約80%をモスクワに依存するダゲスタン
 政府は、モスクワの命令に従い、イスラム過激派に対して仮借ない攻撃を始め
 た。イスラム過激派でもないバサーエフがあのような誤算をしたことに、私は
 驚くしかなかった。バサーエフの兵力の5%はチェチェン人だったが、残りは
 弾圧を逃れてきたダゲスタン人であり、彼らはバサーエフの手を借りて帰国し
 たいと願っていた。バサーエフは彼らの願望に影響されて、ダゲスタンの反
 政府勢力の支持が得られるものと考えてしまった。誰もがバサーエフを批判し
 た。しかし後日、ダゲスタンの反政府グループの指導者が親モスクワ陣営に
 入った時、私達の判断は大きく変わった。つまり、モスクワに買収されていた
 この反政府指導者が、バサーエフをそそのかしてダゲスタンを攻撃させ、かく
 してロシア軍をチェチェンに進攻させる口実を作り上げたというのが、私達
 チェチェン国民が得た結論だった」
「当時ロシアには約20万人、モスクワ首都圏には10万人のチェチェン人が住んで
 いた」
 ロシア国内では、チェチェン人への厳しい取り締まりが始まった。
「賄賂の金が二倍に跳ね上がった」
「チェチェンの男達は用心して、衣服のポケットは全て縫い合わせた。警官に
 麻薬を押し込まれる危険を回避する為である」
「国際社会がチェチェン独立運動に同情を示し始めた時に、どうして犯罪やテロ
 が行われるのか?」

・17章:悪化の一途
 アルハン・ユルトを包囲したシャマーノフ将軍のロシア軍は五千人。半分は
正規兵。残りはチェチェンで戦う為に刑務所から釈放された犯罪者達だった。
「住民を殺しまくる傭兵達をロシア正規軍将校は全く制止できなかったという。
 『彼らは民間人だ。民間人を傷つけてはならない』とその将校は叫んでいた。
 しかし、傭兵達は歓声を上げた。『何をほざく。これは戦争だ。戦争では
 何でもできる。文句があるなら、俺達を止めてみろ』」

・23章:モスクワ劇場占拠事件
「私達の世代がロシアで教育を受けて、ロシア人の友人がいるのとは違って、
この若いチェチェン人世代は、ロシアから受け取る物は死以外に何も知らない」

「誓い」ハッサン・バイエフ(アスペクト)