2002年10月、モスクワ劇場占拠事件、ロシア人ジャーナリスト、アンナ・
ポリトコフスカヤは、武装勢力側から交渉人に指名された。 武装グループの
一人一人とも会話した。
 2003年4月、フランスで行われた欧州議会に彼女は、オブザーバーとして参加
したロシア議員団の報道官が、なんと劇場占拠犯の一人であることを、偶然、
発見してしまう。
 「全員射殺」と当局が発表したにもかかわらず、なぜ犯人が生きていて、
それもロシア政府の人間として活動しているのか?
 その男の名前は、ハンパシャ・テルキバエフ。後日、彼のインタビューに成功
したポリトコフスカヤは、その後の取材によって、彼がロシア側の諜報機関員と
して、劇場占拠事件の立案から実行までをチェチェン側に持ちかけた人物である
と結論づけている。
 なお、テルキバエフは、自身が諜報機関員だという説こそ否定したものの、
占拠グループを先導し、自らその一員として現場にいた事実は認めている。
 「占拠グループが人質を処刑しはじめた」とFSB(ロシア連邦保安局)が
判断し、強行突入の契機となった「原因」は、武装勢力の一人が突入直前の深夜
4時、劇場の屋上に上り、小銃を乱射する。その音を聞いた特殊部隊「アルファ」
の広報担当者は、参集したメディア関係者に向けて、「処刑がはじまった」と
説明、人質解放に向けた交渉が進んでいたにもかかわらず、突入作戦が実行された。
 その武装勢力の一人とは、テルキバエフではないかという疑惑もある。
 2003年12月、彼は、グローズヌイで交通事故死している。
 
 KGB・FSBに通算20年以上勤務し、イギリスに政治亡命した元中佐
アレクサンドル・リトビネンコは、
「劇場占拠事件の犯人グループの中にはFSBの協力者が4人いる。そのうちの
 一人がテルキバエフだ。彼は第一次チェチェン戦争時に起こった病院占拠事件
 に加わって逮捕され、後に恩赦で釈放された。FSBに拘束された者が早期に
 釈放される時は、間違いなく、FSBの協力者となることを約束させられ、
 本人が了承した時だ。」

 彼は、96年にエリツィンの極秘命令により設置された犯罪組織対策・活動阻止
局(URPO)第7課副課長に就任した。
「第7課は『暗殺』を主な任務とする部署だった。」
 第7課の近くにあった第3課の主要な任務は、チェチェン共和国のディスクレ
ジット(信用失墜)にあった。第一次チェチェン戦争ではロシアは世論の形成に
失敗し、軍事侵攻に対する市民の非難とチェチェン人への同情が、事実上の敗戦
につながった。その反省から、FSBは第一次戦争終結直後より、チェチェン
独立派のイメージダウンを図り、チェチェンの仕業にみせかけた誘拐や偽装テロ
工作などを組織的に繰り広げてきたという。
 手口は、FSBのエージェントがチェチェン人を雇い、組織化した上で、
チェチェン本国でジャーナリストや実業家を誘拐させる。
 身代金を要求し、成功すれば山分け、失敗すれば、斬首ビデオを撮る。
 
「FSBが関与した対チェチェン工作最大の謀略」は、「モスクワ連続アパート
 爆破事件」
 99年8月31日から9月16日にかけてモスクワなどで5件の爆破事件があった。
 9月22日、リャザン市内中心部のアパートの前にナンバープレートを偽装した
不審車を住民が発見し、警察に通報。警察官はアパートの地下で爆薬らしき袋を
発見。翌日、FSB長官は、「訓練のために設置したダミーで、爆薬の正体は
砂糖だ」と発言。
 爆破事件で使用された爆薬「へキソゲン」が、ロシア国内では2ヵ所、それも
FSBの厳重な管理下にある工場でのみ生産されている。
 アパートの住民の証言も得て、真相を法廷で明らかにしようとした元FSB
職員トレパシキンは、FSBにより逮捕、投獄された。
 ”刑務所での不審死”も危惧されるが、アムネスティ・インターナショナルに
よって、「良心の囚人」に認定されているので、現在は存命中。

 2004年4月、チェチェン独立派第2代大統領ヤンダルビエフが、カタールで
爆殺される。ロシアの諜報機関員3人がUAEで逮捕。内一名は外交特権で釈放。
外交特権を使って爆発物をセキュリティチェックを受けずに運び込んだ事実も
判明。

 2001年、独立系TV局(NTV、TV6、TVS)に内務省特殊部隊やFSB部隊を突入
させ、国内テレビ局の全ネットが政府の統制化に入る。
 世界最大の石油会社ユコスを解体。

 野党「右派連合」の調査によれば、ロシアの中央・地方政府幹部(行政組織に
おける首長クラス)の70%がシロビキ(旧KGBをはじめとする軍治安関係者)に
よって占められているという。ゴルバチョフ時代に3%、エリツィン時代には
11%程度であった。



 チェチェン問題を扱った雑誌を数冊読んだのだが、「プーチン・ファシズム」
とか、「ファシズム化するロシア」という文字が目に付いた。

 <ファシズム>とは、社会科学的な概念であり、その概念規定というものが
あると思う。
 万人が共有する<ファシズム>という規定はないのかもしれない。
しかし、<ファシズム>は、社会科学的な規定であって、
ムード的に用いてよいものとも思えない。

 プーチン体制を政治的、経済的に分析した上で、ファシズムという言葉を
使っているのか、疑問を感じる。

 プーチンの政治体制は、FSB(旧KGB)を実体的基礎にした
強権的政治支配体制であると思う。
しかし、ファシズムと規定してよいものだろうか?

 ファシズムの現象的特徴の一つが強権的支配体制だからといって、
『逆は真ならず』である。
強権的支配体制が全てファシズムなのではないと思う。

 ファシズムの一つの本質的要素に
<下からの大衆運動>というものがあると思う。

 第一次大戦後、ヴェルサイユ体制の下で、ドイツは、
高額の賠償金支払いを強要されていた。
更に、1929年の世界恐慌で、ドイツ経済は、超インフレで、市民生活は
完全に破綻し切っていた。

経済が安定し、政治も安定していれば、穏健な中道派が一定の支持を得るのだが、
国家経済が完全に破綻し、超インフレで日々の生活さえままならない状況では、
国民は、現状を強力に変革する勢力、つまり、左右両極端に支持が分かれた。
当時のドイツで、議席を毎回増やし続けていたのは、ドイツ共産党とナチスで
あった。
ナチスは、ドイツ共産党の躍進に危機感を抱く小ブルジョア階層等を組織化し、
<下からの大衆運動>を組織化した。
数千人、数万人単位での集会、デモ等を繰り返しながら、党勢を拡大していった。
 ここまでは、民主主義に則っている。
 ワイマール憲法は、当時世界最高の民主的憲法だった。
 ただ、突撃隊がユダヤ人や労働組合等を襲う行為は、民主主義に反している。
ナチスの党勢拡大の一つのテーマが、ナショナリズムであり、反ユダヤ主義だっ
た。

 戦前の日本の軍部は、この<下からの大衆運動>がない為に、
ファシズムとは規定せず、<軍国主義>と規定するのだと思っている。


 プーチンのロシアがファシズムではないと主張している訳ではない。
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
もし、プーチンの体制をファシムズと呼ぶのなら、どういう分析、意味内容に
於いてそう規定するのかを、明らかにしなければならないのではないかと思って
いる。

 ロシアの政治的、経済的分析は私の能力を超えるので、
 私としては、過渡的な措置として、
「プーチンの政治体制は、FSB(旧KGB)を実体的基礎にした
 強権的政治支配体制である」ということでよいのではないかと思っている。

「プーチン・ファシズム」常岡浩介(月刊現代11月号)