「安全保障が民主化政策に優先する」という発想は、米政権が中東において
いくつかの王政、首長政や権威主義体制を支援する、といった政策に反映されて
いるとみなすことができよう。
 政治的自由化として無制限に大衆に政治参加を提供することが、同盟国の
不安定化を招き、米国の安全保障を害することになれば、米政権は「民主化」を
二の次にしても安定を志向するというのがぺセニー(ニューメキシコ大学)の
議論である。

 イラク戦争は従来の米国の対中東政策を一変させるものであった。しかし、
その一変した米国の対中東政策においても「安全保障」と「親・自由化」政策の
間に矛盾が生じた際には、米国の「民主化」方針は後退している。

「独裁からの解放」は自動的に「民主主義の推進」を意味するものではなかった
CPAはイラク戦争後即座に設立されることが期待されたイラク暫定政府の
立ち上げを棚上げし、占領統治を一年間続けた。
暫定政府に主権が移譲されることになったのも、激化した始めた反米攻撃を
受けて、CPAがようやく決断したためである。

 米政権のイラク戦後政策を一言で評価すれば、戦後すぐに親米的民主主義政権
をイラク国内に布置することに、米国は失敗したし、その準備も充分にして
いなかった、ということである。

 CPAに真っ向から反対したシスターニ師の直接選挙要求により、
CPAの間接選挙方式は断念せざるを得なくなる。
この時期、米の戦後イラク統治方針が暗礁に乗り上げつつあったことが、
国連の役割の見直しに結びついたことは指摘しておく必要があろう。

国連のアドバイザーが反対したにもかかわらず、イラク独立選挙委員会が
移行国民議会選挙に在外イラク人の投票も認める。

2004年8月の国民大会
こうした大規模な各派代表者会議の開催は、イラク戦争終結から数週間以内に
実施することが開戦前に米政権によって約束されていたものであったが、
CPA統治開始以降、棚上げされてきた。
国民大会は当初定員を1000人としていた。
地方選出代表団の「選出」方法は各地域に任されていたが、多くの県では不完全
ながらも選挙によって県代表団を選ぶことを好み、各地で自発的な選挙が実施さ
れた。
県代表軽視、というより「民選」代表者に対する軽視のやり方は、国民大会が
実質的には亡命政治勢力のポスト確保の場として利用された、というイラク戦後
の「民主化」の二重性が如実に表れているといえよう。

 移行国民議会選挙までのイラクにおける擬似代議制の導入過程は、国民の政治
参加の場の確保という名目のもとに、実質的には米国主導の戦後体制に登用され
た亡命勢力を中心とした新興政治勢力が、選挙に向けて着々と自派勢力を確立す
る機会として利用されていた。

配給の為に作成された1390万人を記録する住民台帳は、イラク戦争以前のデータ
これが、選挙の有権者登録の元となった。
フセイン政権下でも形式的な議会選挙が実施されてきたが、
そこでは一県を1〜13の選挙区に分けて、1〜5人を選出する中選挙区制だった。

 亡命勢力が、「民主化」の過程でイラク国内の諸地域社会勢力を取り込んで
いったのだろうか、それとも米国の介入を嫌うイラク社会の民意によって、
国内社会勢力の挑戦の前に舞台から去ることになったのだろうか。

 戦後の政治プロセルの中で移植・台頭した政治勢力が
移行国会選挙を生き延びた割合は、占領期閣僚を除いて半数以上といえる。
移行政府38人の内統治評議会経験者が4人、戦後の閣僚経験者が17人であるのに
対して、そうした経験のない人物の閣僚起用は21人であった。移行国会選挙に
よる政治エリートの連続性/非連続性は、非連続性が勝っているといえる。

(1) 戦前の米支援組織は自動的に戦後の統治中心になっていないこと
(2) シーア派イスラーム主義勢力は戦後政治プロセスを着実に活用して、
  米支援の対象外であった国内組織を政治中枢に組み込んでいること
(3) スンナ派系諸政党の支持基盤の地域限定性

 クルドは米政権の支援方針と矛盾せずに「民主的」に選出されたという
正統性を獲得することができた。
 シーア派イスラーム主義勢力は、亡命政党がシーア派宗教界や
国内の反米強硬派などの国内勢力との連携を着実に確立していった結果、
「民主的」手段によって圧倒的な支持の上に政権中枢に立つことができたが、
それは米政権のイラク支援構想の枠を大きくはずれるものであった。
 スンナ派系の諸勢力は、米政権による戦前の登用準備もなされず、
自発的な政党結成の能力もないまま、結果的にフセイン政権時代と同様に
部族的動員力を持つ個人政治家だけが地方に限定された支持を得たにとどまった

 戦後の政治プロセス全般を見れば、米主導で移植した亡命イラク人政党が
国内基盤の各種政治勢力を「取り込む」過程であったといえるが、
イスラーム主義政党はその取り込みに成功し、
アッラーウィら世俗派は失敗した、ということにつきる。
スンナ派系諸勢力にいたっては、取り込む主体の確立すらも実現できておらず、
選挙の結果ではむしろ体制外にはじきだされた。
すなわち今後「取り込まれる」側に位置づけられることになってしまった。


 <追記>憲法草案を巡って
 結論からいえば、十分な議論のないままとりまとめられた憲法草案は、
各政治勢力の主張を調整のないまま併記し、争点を先送りしたものとなった。
形式的な「民主化」の推進によって政治的主張の「自由化」のみ進められ、
それを統合する努力が十分尽くされていないことから、意見の対立が
領土の対立に転化され、いまや国家の「分裂」の危機をも孕むにいたっている。

「戦後イラクにおける民主化」:酒井啓子(「湾岸アラブと民主主義」日本評論社)