「イラク戦争中の前線で、クルド人兵士に言われた言葉を思い出す。
 『戦争に賛成してくれて、ありがとう』
 アメリカと協調してフセイン政権と対峙していたクルドにとって、
 イラク戦争をいち早く支持した日本は味方だった」

 筆者がインタビューしたクルドの若者達は、ほとんどが開戦賛成だった。
フセインを倒すにはそれ以外考えられないと。

 イラン国境にアルカイダ系と言われる原理主義過激派の
アンサール・イスラムの軍事キャンプが九か所あり、
PUKの部隊と対峙していた。
イランの支援がなければ存続し得ないことは明らかだと思う。
アンサール・イスラムは、ムスリム同胞団のメンバーが中心となり、
87年にIMK(クルド・イスラム運動)が生まれ、そこから派生した。
地元住民のイスラム教徒に一定の支持を得ている。
2002年、筆者はその最前線を取材した。

「アンサール・イスラムを介して、アルカイダとイラク政府はつながっている」
と、PUKのスパイは語った。

 アンサール・イスラムは、米軍による空爆とクルドによる軍事侵攻により、
壊滅的被害を被り、現在では、アンサール・スンナを派生させている。

80年代、フセイン政権によるクルド弾圧は熾烈を極めた。
ヒューマン・ライツ・ウォッチの調査では、連行されたクルド人男性は5万人、
10万人の可能性もある。
ハラブジャの化学兵器攻撃では3200〜5000人が死亡したと報告している。

大国や隣国はその時々の都合でクルドを利用した。
クルド側もそれを利用した。お互い様ではある。

KDP支配地域での若者へのインタビューでは、
若者達はKDP批判をする者がほとんどだった。
「インターネットも、携帯電話も、衛星放送も自由ですよね」
「本当の民主主義ではないことが、あなたにはわかるでしょう」
部族社会の慣習が根深く、コネがなければ良い仕事を得られない。


「イラク取材で一番注意すべき相手はアメリカ兵だった」
「占領下のバグダッドは、逮捕状もいらなければ裁判もいらなかった。
 人を殺しても「ごめん」ですむ」

「武装勢力による自爆や仕かけ爆弾も、
 アメリカ軍による掃討作戦も、
 一般の人たちの犠牲が前提にある。
 偶然に市民をまきこんでしまったのではない。
 市民に犠牲が出るとわかっていて、やっている」

2004年1月、バグダッドにて、
自爆テロに対して、周囲の市民達は、アメリカの陰謀説を声高に叫んでいた。
生活への不満、一向に良くならない治安、これらへの不満からはけ口を求めて、
陰謀説が流布されていると筆者は分析する。まあそうなのだろうと思う。

2004年1月、筆者はファルージャの市民達と対話した。
「でも、レジスタンスで市民が死んでいますよね」
 絨緞屋の店主は語る。
「レジスタンスはアメリカ軍に対してだけだ。
 スンニ派には二つのグループがある。
 市民から支持されているのは、アメリカ軍に対する攻撃だ。
 バグダッドやカルディアで爆弾を使っているのは、だれかが支援する組織だ。
 市民を攻撃するのは犯罪だ。私達も問題だと思っている」
「だれかが支援する組織とは?」答えはなかった。

「道端で爆弾が爆発し、イラク人もたくさん巻き添えになっている。
 通過する米軍車輌を狙ってのことでも、そうしたテロに彼らは憤っている。
 米軍に正面から立ち向かう手口ではないから、誇りとメンツを重んじる
 イラク人は、外国から入って来た勢力の仕業だと訴える」

 イラク人には人なつっこい人が多いようにも感じられる。
しかし、同時に、表と裏がはっきりしているようにも感じられる。
自爆テロを行っているのは、イラク人の筈がないという建前。
そこから出てくる帰結は、米軍の仕業か、外国人の仕業ということになる。
外国人が多く関与していることは現在では明らかとなっている。
米軍の謀略ということもなくはないかもしれない。
しかし、はっきりしているのは、自爆テロにイラク人も関与しているという
ことだ。
どんな国にも超過激派はいる。
無差別テロを行う正真正銘のテロリスト=超過激派とは戦わねばならないと思う。

アフガニスタンでは、タリバン穏健派は武装解除に応じ、
選挙参加へと向かっている。
米国がテロリストと規定するハマスやヒズボラは、
選挙での躍進と共に、テロも減少し、選挙闘争への比重が増している。
だから、イラクのスンニ派地元武装勢力の多くとは、停戦し、同じイラク人をも
テロで多くの死傷者を出している超過激派と戦ってもらえばよいと思う。


2004年1月、サマワでも取材している。
「水不足そのものは戦争のためではなく、
 もともと水道自体が対象地域全体をカバーしていない。
 ルメイサ浄水場がカバーできるのは、対象人口五万五千人のうち五〜六割」
「一部には村で水を配ってお金をとるドライバーもいた。
 水道局もそのことは把握していた」
「サマワは安全な街だった。日本政府の言もウソではなかった。
 シーア派地域は治安が比較的安定しているとはいえ、いまのイラクにあって
 よくぞこれだけ安全な派遣先を探したものだと感心した。
 夜遅くレストランに出かけて食事ができた。
 夜に出歩くなど、バグダッドでは考えられないことだった。
 しかし、そんなサマワにも暗部はあった」

「ジャーナリストは何人も来たが、何も変わってない」

2004年6月、ファルージャを取材しようとした筆者は、
ファルージャまでの途中の道のりに責任が持てないという返答を得た。
「武装勢力も細分化していて、統制が取れていないよう」だと書いている。

2004年6月、筆者は再びバグダッドに入った。
しかし、もはやほとんど満足には取材ができない状況だった。
筆者はそれを「窮屈な日々」と表現した。
自分は、こんな窮屈なイラクから出て行けば済む。
しかし、イラク人には他所に出て行ける人は多くはない。

「クルド、イラク、窮屈な日々」:渡辺悟(現代書館)