「学歴や出身校、習得した技術を尋ねる前に、どの宗派に属するのかを聞く
西欧人の無神経さに、不愉快な思いを隠せないイラク人知識人は少なくない。
物理的な破壊や経済的停滞よりも何よりも、
「イラク戦争で半世紀も一世紀も後退した」とイラク人が嘆くのは、
そうした帰属意識の矮小化である。

一連の「宗派」対立は、あくまでもイラク戦争後の
イラクの政治社会的環境が作り出した、「政治の産物」である。

・地域間利害を先鋭化させた結果
・主要政党が宗教的な動員力に依存した結果
イラク社会のイスラーム化、地域分断化が進行したのである。

第一にはブッシュ米政権の政策的な「間違い」
第二には、その「間違い」を超えて、米軍の武力による「政権交替」が
実質的には「革命」ともいえる社会変化を誘発しながら、
その「革命」の帰結が米政権の望まない方向で進行している、という現実。


 <治安悪化の新たな要因>

2005年4月の移行政府成立以降、イラク人化政策が
逆に治安悪化をもたらす原因を作っている。
内相ポストがSCIRI出身者によって占められ、
治安機関がSCIRI系のバドル組織に独占されたことが、その主要因である。

イラン・イラク戦争期にイランの支援を受けて、イランからイラク国内に
潜入させられたバドル部隊に対して、それを「外敵」として戦った
経験と記憶を持つ、あるいは彼らによって命を失ったイラク人は少なくない。

バドル組織の治安機関への独占が進むにつれて、
・イスラーム主義政党対旧バアス党員という対立項に加えて、
・「シーア派イスラーム政党」対「スンナ派」との対立項が浮かび上がってきた


 <政治が生み出した宗派対立>

イラク国内の治安情勢は、移行政府成立以前は基本的に外国軍の占領や
外国主導の国家建設に反対する形で武力衝突が発生していたのに対して、
移行政府成立後は、イスラーム主義対世俗・旧バアス党系勢力の対立といった
イデオロギー的路線対立が新たな衝突原因となっている。
そしてそれが、宗派を基軸とした対立として回収され、
宗派対立的様相を促しているのである。
同時に、「選挙」を前にして、最も短絡的に票を獲得できるのが、
宗教と部族的紐帯の利用だということも、
宗派性を過度に強調する政治状況を生み出している。

宗派的統一性をこれまで全く持たなかったスンナ派社会が、
「スンナ派」としての政治行動を求められるようになったのは、
これらの一連の選挙の結果であるといってもよいだろう。

スンナ派政治家の登用が一見、スンナ派住民の民意代弁の目的の為に進められて
いるように見えながら、実際には移行政府及び米政権の目的は別の所にあった
ことに留意する必要がある。それは、スンナ派政治家の登用を通じて、
あい続くスンナ派住民居住地域での反米、反政府武装活動をいかに制御できるか
ということであった。スンナ派政治家には、住民代表としての性格よりも、
スンナ派地域の武装勢力に対する説得、統御が求められたのである。
それ以降多くの野心あふれるスンナ派政治家が、武装勢力との接触、
彼らとの交渉能力や人脈をプレイアップして政界への進出を図るようになった。

国民投票は同時にまた、「スンナ派」地域での他地域との政治志向の違いを
明確にする結果を生んだことで、これまで「スンナ派」としての宗派意識の
希薄であった地域に、「スンナ派」意識を植えつけることともなった。

「スンナ派」という宗派意識と、「一地域」としての利害意識の一致とが、
重なりあうこととなった。
それを「スンナ派」政治家が掬い取るようにして、「スンナ派」社会の代表性を
喧伝しつつ、国政に名乗りをあげていったのである。


 <イラクの将来像を巡る対立>

(ジャファリ首相続投を巡る混乱は)
イラクの今後の国家体制をどうするか、という基本的な問題を巡って
発生していると考えるべきである。

ダアワ党は、1950年代末にバーキル・サドルを思想的中核として成立した、
イラク国内のシーア派社会における最初のイスラーム主義政党
その後の殆どのシーア派イスラーム主義政党は、
ダアワ党を母体として分派、新設された。
SCIRIもまたダアワ党出身者を中心に、イランに亡命した
イスラーム主義政治家やウラマーが1982年にイランで設立したものである。
ジャファリが所属したダアワ党ロンドン支部は、湾岸戦争以降党活動の中心で
あったダアワ党テヘラン支部と政治方向を巡って内部対立を生じ、1990年代末
以降ロンドン支部とダマスカス支部が党の主導権を握ってイランと距離を置いた
ダアワ党は、水面下で米英政府と交渉を持ってはいたものの、
イラク戦争開戦まで、軍事攻撃と米軍の威を借りた政権交替に反対していた。

「シーア派代表としてのシーア派イスラーム主義政党」という
位置づけに対して、ダアワ党を始めとするイスラーム主義政党は、反発した。
イスラーム主義者にとって、イスラーム主義は
シーア派社会にのみ適用されるべき思想ではなく、広くイスラーム社会全体、
つまりイラク社会全体に適用されるものだとの観点から、
「シーア派」社会のみの政党として認識されることに抵抗を示したのである。

SCIRIの「シーア派」限定性は、ダアワ党との
組織構成上の相違に起因するとも考えられる。
ダアワ党は、政党政党成立前、その構成員の一部がスンナ派のイスラーム主義
政党であるイスラーム解放党やムスリム同胞団に所属していたという経験を持つ
初期においてはスンナ派党員もダアワ党に加盟していたとの説もあり、
超宗派性を持つ。
ダアワ党は、党員及び幹部に、非ウラマーを多く持ち、
バグダードやバスラなどの都市部青年層での活動に一定の基礎を持つが、
SCIRIはウラマーの関与度が高い。
SCIRIにとっては、シーア派聖地という「一地域」としてのシーア派社会が
最も重要であるといえるだろう。


 <イラク・ナショナリズムか、「有力者の手打ち」か>

都市青年層に比重を置くダアワ党とウラマー中心のSCIRIという差異は、
実はサドル潮流とSCIRIとの間に、より鮮明に見られる。
「イラク人であること」よりも、
「ナジャフ・カルバラで学んだウラマーとの関係」が
むしろ重要な要素を占める海外亡命組のSCIRIに対して、
純粋国内培養のサドル潮流は「イラク人としてイラクに生まれ育った」ことを
前面に押し出して、対抗意識を燃やしてきた。
特にサドル家とハキーム家という、
それぞれの組織の創立者のウラマー名家同士の対立も反映されている。

国内での大衆的支持は、イラク戦争直後から
国内組イスラーム主義組織にむしろ集まった。
特にサドル潮流が魅了したのは、イラン・イラク戦争から始まってイラク戦争に
至る戦時にも関わらず、そしてフセイン政権の圧政下にも関わらず国内に留まり
自分達の「時」が来るのを待ちわびていた「持たざる人々」であった。
それは主として都市部貧困地域の青年層であったが、サドル潮流の指導者である
ムクタダ・サドルの歯に衣着せぬ反米的言動、権威に対する反抗は、
彼自身の若さと相まって、特に戦後の不満層を代弁することとなったのである。

国内勢力であるサドル潮流は、亡命期間の長かったダアワ党に対しても、
批判的姿勢をとっている。しかしSCIRIに比較して、
サドル潮流のダアワ党への一定の「信頼」は明らかであろう。
サドル潮流の反米武装抵抗運動が激化した2004年に、サドル潮流は
SCIRIに対してはその「対イラン依存」姿勢を糾弾したが、
ダアワ党のジャアファリ党首に対する批判は、
「かつてのダアワ党はそのように対米追随ではなかったではないか」
といったトーンになっていることは、興味深い。

サドル潮流のダアワ党に対する親近感には、サドル潮流のムクタダ・サドルの父
サーディク・サドルが元々ダアワ党と密接な関係を持っていたこと、
そもそもダアワ党創設者であるバーキル・サドルがムクタダの叔父にあたること
それ以上に、ダアワ党とサドル潮流の共通点は、
いずれもイラク国内での活動に力点を置き続けたこと、
そしてイラク一国としての統一を重視することにある。
初期ダアワ党の持っていた超宗派性を、より明示的な形で提示しているのが、
現在のサドル潮流だということもできる。
サドル潮流とダアワ党への支持の根源には、
彼らの持つ「イラク・ナショナリズム」があるといえよう。

「南部シーア派地域での地方自治政府樹立構想を明らかにしたSCIRIは
南部油田の利権獲得を見越して、
北部のクルドと「領地分割」で手打ちを行うことが可能である。
SCIRIとクルドの「現実的」な姿勢は、
国際社会としてはむしろ扱い易いものである。
ダアワ党やサドル潮流の掲げる原則主義的なイスラーム主義によって
統一的なイラクが運営されるよりも、
・世俗性を残したクルド地域、
・必要に応じて対米友好関係も築くことの出来るSCIRI率いる南部シーア派地域
・ある程度旧体制派の登用を容認された中西部スンナ派地域に
イラクを分断して、個別に監督する方が米政権としてはやり易いと考えている。

だがそこには政治エリートの長さえ把握しておけばよしとする、
イラク戦争以前からの米政権の発想を軌道修正する気配はない。


戦後のイラクで進行していることは、実態としての「革命」である。
強権的な世俗独裁政権であるフセイン政権を取り除いた時に、そこに忍従して
いた持たざる不満層は、独裁政権の下で苦渋をなめ続けた自分達こそが
「イラク人」であるとして、「イラク」と言う国の主人であることを要求した。
その新生イラクの求心力となる思想に、イスラーム主義を掲げたのが
サドル潮流であり、それに共闘するのがダアワ党である。
戦争という体制転換の機会を捉えて、彼らが目指したのは、
米軍ではなく、自分達の手による事後的な「革命」である。
彼らにとっては、領土的にイラクを分割して異なる国家理念と共存することは、
「革命」の頓挫である。
その意味では、連邦選挙後の正式政権の産みの苦しみは、
新生イラクが「革命」を追求するのか、途中で妥協的な分断のまま終結するのか
を巡る、深刻な路線対立によるものだといえよう。


<結語>

米政権がこだわる宗派・民族別の統治という発想は、
「異なる社会集団が、リアリズムに基いた利害関係によって平和裏に並存する」
ことを前提としている。
中東社会はそれぞれの社会集団の並存によって成り立ち、それぞれの社会集団は
各代表を持って「ボス交」をする、との認識が、米政権の発想の根底にある。
イラクの戦後政治は、米政権にとっては各集団のボス選びである。
この「異なる社会集団が、リアリズムに基いた利害関係によって平和裏に並存
する」ことは、共存と同義ではない、共存相手の生活に同情し共感することに
よって「共存」が成立するほど現実は理想的ではないから、自分の治安を確保
する為に他者に対して現実的な妥協を行う、その過程でリアリズムに基づいた
「並存」の「平和」が達成できる。ここで構築される「平和」においては、
人々は他者/他の宗派、他の民族の安全には興味がない。自分達の安全にしか
興味がない。あるいは、自分達が何をしているか/するかしか、興味がない。
そうした発想は、現在のイスラエルにおける「自分達の治安を確保する為に
一方的に占領地から撤退する」という行動を、「和平の実現」と呼ぶのと
同じである。
更にいえば、米軍の撤退を求める米国世論もまた、「共存」ではない「並存」を
前提とした平和を求めているに過ぎない。米軍の撤退を求める声は、米国人が
イラクで何をしているのかに興味を持つことから発声される。彼らの多くは、
「イラクを占領している」あるいは、「イラク人を虐待している」
米国民としての行動に責任を取ることだけを、問うているに過ぎない。
戦争以前のイラク社会において、リアリズムに徹する為に必要な
「他者がどうあれ自分達が何をしているか」についての責任感意識は成立して
いなかった。換言すれば、自分達の利害を第一に考えて「並存の平和」を
選択するという発想は存在していなかった。ここで「なかった」というのは、
責任感を持たなかったことを問題視しているのではない。
「自分達とは誰か=何の宗派か、何の民族か、何の部族か」の
明確な弁別意識がなかった、ということである。
戦争、占領と続く過程で、国民は複数の宗派への帰属意識に矮小化され、
弁別されていく。
混乱の続く戦後のイラクを評して、「イラクのパレスチナ化」と
しばしば言われる。しかしその言いが正しいのは、形態としての占領という
共通性によってではなく、これまで共存してきた同胞の他者化を強いられる
ということと、自己社会に対してのみ責任意識を持つことでしか平和が構築
しえない、という発想が植えつけられる、という点で、パレスチナとイラクは
同じ不幸な道を辿っているからである。




 <私の感想>
さすが酒井啓子女史である。
現象的な記述に留まることなく、
・実体を措定し、
 その実体の
 ・歴史的経緯
 ・イデオロギー
 ・組織構成
 ・支持階層、その支持階層の要望
 等々、という下向分析を行っている。
その分析が妥当かどうかはともかく、
各メディアに於いて、こういう分析自体が貧困だと思う。
そういうしっかりした分析があって初めて、
ではその分析内容は内容的に妥当か否かという議論が始まる。

私は酒井女史の分析内容を全面的に肯定する訳でもない。

ある政治勢力と、その政治勢力を支持する社会階層と
その社会階層の要望という観点が重要だと思う。
そういう社会学的、社会科学的分析が貧困だったと思う。

ある政治勢力が、政治勢力たり得るのは、
それを社会的に支えている社会集団が存在しているからであり、
その支持集団の要求に応えなければ、存在自体を存続できないと思う。

ジャファリ首相続投問題を巡る対立を、
「イラクの今後の国家体制をどうするか、という基本的な問題を巡って
発生していると考えるべきである」と述べている。
それはその通りだと思う。
連邦制か中央集権制か、
クルドの求める<独立性の高い連邦制>
SCIRIの「南部シュメール連邦構想」も<独立性の高い連邦制>と言えると思う

それに対して、あくまでも<統一国家イラク>を求める者達。
基本的には、そういう観点が根底になければならないと思う。

しかし、ならば、
@スンニ派やアラウィ氏の世俗派は、何故ジャファリ氏続投に反対したのか
A同じダアワ党のマリキ氏なら何故肯定するのか

という疑問が直ちに浮かぶ。

@について
スンニ派がジャファリ首相続投に強硬に反対したのは、ジャファリ氏というより
SCIRIの内務省ポスト維持に反対だったという要素の方が強いと思う。
スンニ派は本来は連邦制に反対であり、その限りでは、
ジャファリ氏に反対している訳ではないと思う。
ジャファリ氏の中央主権制に反対したのではないと思う。

酒井女史はスンナ派政治家は「まがいもの」とみているようだ。
そういう観点は斬新だ。
しかし、スンナ派政治家は、2005年10月の憲法制定国民投票では、
一致団結して反対票を組織化している。
そういう意味では、当時のUIAは、憲法草案賛成であり、
ダアワ党もサドル派もその方針に賛成していたのだから、
スンナ派よりも中央集権制を強く求めているとは言えないと思う。
もちろん、憲法草案国民投票は、連邦制か中央集権制かを
唯一の争点にしていた訳ではなく、
政治プロセスを進める為のものという要素が強かったとも思うが。


Aについて
ジャファリ氏かマリキ氏かという、<個人的資質の問題>も確かにあるだろう。
しかし一国の首相を決定するのに、<個人的資質の問題>が第一義的な問題
だとは思えない。
しかるに、スンニ派その他は、ダアワ党のマリキ氏なら歓迎するという。
同じダアワ党なのだから、政治的立場、政治的方針にそう大きな違いがあるとは
思えない。違いがあるとしてもダアワ党という一つの党の方針の枠内である筈だ
まあ四か月の混乱自体を早急に収める必要があったのであるから妥協した訳だが
一体何をどう妥協したのかさえ明らかではない。


また、一言で、スンナ派政治家といっても、
・イラク合意戦線と
・イラク対話評議会とでは、
 その支持層が違うようである。
・イラク合意戦線は、イラク・イスラム党を中核とするアラブ・スンナの
 宗教勢力を支持基盤としており、
・イラク対話評議会は、元バース党員のムトラクが党首なのだから、
 旧バース党支持層や、各種アラブ民族主義者や、アラブ・スンナの世俗派を
 支持基盤にしているものと思われる。

スンナ派二大会派は、石油資源の乏しいスンニ派アラブ人にとって、
石油利益の配分比率という死活問題に対しては、
<スンニ派アラブ人>という利害関係でまとまるのは当然だと思う。


また、カギカッコ付きであるとはいえ、
「革命」と表現していることも斬新だった。
内からの革命ではなく、下からの革命でもなく、
更には上からの革命でさえもないのだが、
外からの革命とは言えなくもない。
フセイン独裁体制が戦争により崩壊した後、
次の政治体制がどうなるのか、
もちろん、ブッシュ政権は、自らに都合の良い政権の構築に四苦八苦してきた。
その思惑は、ことごとく破産してきた。
ブッシュ政権の思惑を破産せしめてきたもの、
それは、各階層のイラクの人民による戦いによるものだ。
しかし、イラク人民自体が、分裂している。
2500万人もいるのだから、分裂していて当然ではある。
民族、宗派、部族、地縁、血縁、階級、等々の要素により分裂している。
それらの力関係の総体によりある方向へ向かっている。

<占領者の思惑と実践>と<被占領者の思惑と実践>
更には<被占領者間の対立>

・占領容認派と抵抗派
・宗教勢力と世俗派勢力
・自治を享受するクルド
・自治を享受しつつある南部シーア派諸県

地域によっても治安情況、経済状況、占領軍の存在の有無、
等々とかなり条件自体が異なる。

しかし、ジャファリ首相続投問題は、
イラクという統一国家を維持するのか、
緩やかな連邦制という名の下に、分断・固定化されるのか、
という問題だと捉えるべきだと思う。


イラク戦争後にイラク人の間に他者との差異性意識が植えつけられたと
酒井女史は述べているのだが、
果たしてそうだろうかという根本的な疑問がある。
クルドとシーアは、戦争以前からフセイン体制によって、
他者との差異性という意識を嫌でも既に植え付けられていたのではないか。
スンニ派を意図的に優遇し、クルドには何度も軍事侵攻したし、
シーア派に対しても、宗教活動を抑圧したり、
湾岸戦争後のシーア派の蜂起に対しては、徹底的に弾圧し、
その後も抑圧を続けていたと思う。
つまり、クルドとシーア派は自ら望まないにも関わらず
既に分断されてきたと思う。

もちろん、それを基礎にして、
・戦後に形成されたもの
・最近の「宗派対立」によって、更に加速的に形成されたもの
という風に、更に深刻化したと捉えるべきではないか。


更には私の個人的問題意識として
<イラクのチェチェン化>というものもあります。
チェチェン南部山岳地帯で現在戦っているのは、
元独立派の兵士と独立派兵士
つまり、チェチェン人同士です。
闘争戦術としては無差別テロを路線を採り、
民族独立運動路線を逸脱し、
過激なイスラム国家建設運動へと変質した
『チェチェン独立派』から抜け出し、
体制側へと身を投じる元『独立派』兵士は
後を絶ちません。

イラクでも、イラク人同士の戦い
・占領容認派と占領反対派の戦い
という地獄へと向かっているのではないかという直感もあります。
スンニ派武装勢力の内、体制側の民兵へと組織編入される者と
あくまでも反体制側で戦う者とは、
そういう関係に陥ってしまうかもしれません。

また、現在のチェチェンの独立派は、もはや独立派というより、
チェチェン周辺の他の民族のイスラム教徒と共に
カフカスにイスラム国家を建設しようとする運動
といった方がより適当だと思われます。

イラクでも、イスラム国家建設を目指す勢力は多いと思います。
イスラム原理主義勢力です。
それは体制側と反体制側の両方にいます。
体制側では、シーア派各派や、スンニ派の宗教勢力ですね。
ただ、彼らは合法的に徐々にやっていこうということだと思います。
スンニ派武装勢力の中の過激な部分は、Takfiris であり、
過激なイスラム国家建設運動という様相を呈しているとも思えます。
そういう分子が、スンニ派内で主導権を握ってします可能性は
なくはないとも思えます。
そうなると、スンニ派地域では、
イラクのチェチェン化が進行してしまうかもしれません。

「「革命」か、「分断」か イラクの「パレスチナ化」の真相」:酒井啓子(現代思想5月号)