<はしがき>
「亡命した後でも、フセイン体制を弁護するような発言をする人々がいるが、
彼らはフセインを弁護しているのではなく、自分たちがフセイン体制のもとで
暮らした時間を弁護しているのだ」
「フセインを非難すればいいというものではない。反省すべきはフセインを生ん
でしまったイラク社会の問題である。イラク人は皆、心のどこかに小さなフセ
インを持っている。そうしたものを内在する社会構造自体から治していかなけ
らばならない」(p.xii)
<第一章>一党独裁から大統領個人崇拝へ
・68年バアス党革命:最初のコミュニケ「部族的性格の打破」
・72年石油産業国有化以降、欧米との関係悪化
・73年イラク共産党との共闘:
欧米との関係悪化を打開する為に対ソ友好条約の締結の為に共産党を利用
ソ連型重工業重視の計画経済の開始
・70年「3月宣言」:クルドの自治を認める交渉を開始、しかし交渉決裂
・75年イランとアルジェ協定:クルドを軍事力で鎮圧
「バアス党組織の特徴は、それが国民生活の末端にまで行き渡る党ヒエラルキー
構造を確立し、大衆のコントロールに成功していること」(p.22)
68年バアス党革命は軍主導で行われたが、その後軍人排除政策が取られ、文民
主導となる。
「閣僚と党幹部、国家最高機関が重複する体制が成立」(p.28)
・79年フセイン大統領主任
当初は、<対シリア合邦>か<対イラン革命対策>かの路線対立、後者の勝利
・79年イラク共産党非合法化
石油収入の増大によりソ連に依存する必要性の激減による
・87年統制経済を廃し、経済自由化政策
国家主導の計画経済政策を廃すということは、社会主義的国家機構、党ヒエラ
ルキーに依存しない、新たな機構を模索するということであり、その新たなもの
が、国会であった、その過程で同時にフセインの親族の政権登用を巧妙に実現。
党ヒエラルキーを経ない、フセイン個人との直接のバイパス作りでもあった。
・バアス党は63年まではシーア派党員も人口比存在したが、それ以降激減。
・バアス党初代大統領バクルとフセインともティクリート出身のアルブ・
ナースィルという同族の親族関係、
「68年のバアス党革命は、ユーフラテス河上流閥の協力なしには成就でき
なかった」(p.47)
「広域閥内でのライバル関係を利用して閥間バランスを維持」(p.51)
「バアス党政権はスンナ派三角地帯における「地縁閥連合体」」
・バアス党内での昇進のメルクマールはシーア派やクルド地域での統治能力
・バアス党の地方政策は地方社会の意向ではなく、中央からの統治・紛争処理に
力点を置いている。
<第二章>大統領親族の盛衰
「軍事産業委員会自体が、大統領親族が自分の権力基盤として短期間で築き上げ
たというにはあまりに深く根を張った、構造的な存在」(p.96)
・91年湾岸戦争後の91年蜂起後、県知事には軍将校が任命、しかし、地域社
会の細かい行政での統治には、部族勢力に依存せざるを得なかった。
党・国家機関による支配網を再建する余裕がなかったため。
96年以降、経済制裁の下での配給制を復活し、党・国家機構の再建
これは<地方部族>と<党・国家機構>との力のバランス
<第三章>「政治参加」の第一歩
「親政府・北部地縁集団間の連合体」
・国会:選挙権は18歳以上の男女・直接・無記名
被選挙権は25歳以上の男女
選挙準備高等委員会による資格審査あり
・80年第一回選挙:立候補者の40%、当選議員の80%がバアス党員
・84年第二回選挙:立候補者の27%、当選議員の40%がバアス党員
・イラクとの戦争の帰還兵100万人への雇用が不足
・東欧での民主化に対して事前に対策の必要
・不満を軽減すべく「上からの民主化」
・経済自由化政策により民間企業の活動が活発化したという背景
・党エリート、行政エリートから、有識集団へ
・89年選挙
・立候補者の「ラカブ(一族の姓)使用の普及」
「党に変わるものとしてアシーラ=部族」を置き換えたのではなく、党自体を
アシーラ的意識のなかに組み込むことで、党ネットワークを利用すると同時に
ラカブによって結び付けられたネットワークをも利用する」(p.147)
バアス党政権は従来は、ラカブ・アシーラを「封建性、前近代姓の名残」とし
て公的使用を禁止してきたことを転換。
ひとたび「党エリート幻想」がその機能を失ったと同時に、それに代わって
「地縁・部族エリート幻想」が表出
「アシーラ=部族」意識は、湾岸戦争後ますます大きくなる
「湾岸戦争をはさんで一斉に部族的ルーツ探しのブームが訪れたかのような様相
を呈する」(p.148)
91年「蜂起の最中に地方有力部族は蜂起に参加せず、むしろ政府を支持する
姿勢を取った」、そのため、
「91年蜂起以降政府は党による制度的支配に消極的となり、親政府部族に地方
統治を任せるようになった」(p.157)
・部族局という治安組織を設置
・地方社会の治安維持を部族の自衛に任せる
・部族青年への徴兵の免除
・部族長への免税措置
・部族法を復活し、部族長による長老会議を設置
湾岸戦争後の経済制裁により部族の支配する闇交易に依存する必要性があった
・96年選挙:220議席に対して立候補689人。党員は160名全員が当選
・2000年選挙:立候補512人。党員は165人全員が当選
「アシーラを基盤にした社会支配がフセイン政権の重要な基盤を支えるように
なっていたことを立候補者が十分自覚していた」
「アシーラにフセイン政権が何を期待しているのかを表明した「プロフィール」
もしばしば見られる」(p.172)
「フセイン政権の下部政治エリートに参入するためには党のヒエラルキーに加わ
っている必要がない、ということを明らかにした。その意味で、党の絶対的
支配体制を相対化するものであったが、同時に、そうした党外から政権に参入
するものに対しても党が「公認」という形で権威を与える存在である、という
ことを強調して、党の政治的優位性を護持している」(p.174)
・スンナ派都市部で宗教者の立候補の増加=下部政治エリートへの参入
南部シーア派では一切見られない
「党ヒエラルキーから外れている層や、既存のヒエラルキーでは中枢に到達する
のが迂遠なため政権に対して政治的社会的不満を抱く層が、政権から離反しな
いように、彼らを国会を通じて支配ネットワークのなかに組み込んでおくとい
う目的もあった」(p.180)
ただし、「党支配構造を代替すべきネットワークは党のように位階的なもので
あってはならず」「フセイン自身が「忠誠」関係の解き結びを自由に行うこと
ができるという意味で、フセインの絶対的権力の大きさをより浮き彫りにする
もの」(p.180)
「アラブナショナリズムが、アラブ純血主義へと転換を見せながら、再活性化
される「部族意識」と相互に支えあっていくものとなった」(p.181)
<第二部>
「イラクの南北差は、スンナ・シーアという宗教的原因よりも、社会経済上の
構造的な差異、特に近代化の過程で発生した南北の経済格差によって生まれた
要素のほうが強い」(p.195)
「南部の農業的特長は、灌漑のための大規模な設備投資を必要とする点にあり、
そのため大土地所有者による搾取が激しく、貧富格差の拡大が深刻」(p.196)
したがって、イラク共産党の最大の支持基盤であった。
バアス党としては、南部及び南部出身の低所得者層の社会的経済的不満に対し
て対処せざるを得ない
<第四章>地方の貧困、都市の貧困
「87年の人口調査では、総人口の70%以上が都市部に集中」
92年の最後の統計では人口1895万人。バグダードの人口は400万人
(現在は約500万人と言われている)
地方(特に南部農民=シーア派)からの人口流入によるもの
(南部地域全県が人口流出県)
バグダードへの都市流入者の81%が農民、66%が小作農
「地域的経済的格差をめぐる対立が宗派的対立軸に転化されがち」(p.202)
潤沢な石油収入を分配し、慰撫政策を取る。
・オスマントルコ行政下で部族長は地主化していた。
・共和制革命後の58年の農地改革の失敗による流出民の発生
・フセインによるサダム・シティ建設による低所得者用住宅は大家族に限定され
たため、故郷から家族を呼び寄せるという都市流入を一層誘発。
バグダード流入者の離村「理由の第二位の「部族長の不正」は、南部地域のみ
ならず地方社会全般的に部族的、封建的慣習による社会的制約が強く、それを
嫌った住民が多い」「部族的社会的紐帯が、農村における地主・小作関係と
重なることで、部族民=小作農が二重に従属下に置かれる」(p.215)
南部からのバグダード流入者は、イラク共産党の支持基盤であり、
その後は、ダアワ党の支持基盤となる。
フセインは、対策として、
・都市での住宅提供
・地域開発・地方での雇用創出
・地方での国有農場プロジェクトによる帰農政策:完全な失敗に終わる
・公務員として採用(77年には都市流入民が公務員の46%を占める)
(国防、治安、公共行政部門への労働力吸収)
・聖地で発生した74年暴動は、「70年代半ばにナジャフ、カルバラ地域を
襲った旱魃に対する経済的な不満が起因している」「シーア派的特質よりも
灌漑農業地帯としての南部の特質を、暴動背景として強調している」(p.248
・80年ダアワ党創設者サドル氏を処刑
・82年SCIRI発足
<第五章>怒れる若者たち
「フセイン政権は、既存の政治的社会的エリート集団とそこから逸脱しそれに
対して挑戦する可能性をもつ集団の、両方を巧妙に利用し、対抗させつつ相互
に行動を抑制させ、大統領個人の権力の最大化を図った」(p.260)
「バアス党イラク支部は1955年時点で構成員の三分の一強が学生、63年に
は半分以上にまで増加するほど若年層中心の政党であった。
基本的にバアス党は青年の党として支持基盤を確立してきた」(p.262)
「67年時点ですら大学での大学生連盟選挙において共産党が多数派を獲得」
(p.271)
・イランとの戦時下において徴兵を回避するためにわざと留年するケースが多発
「ただ出兵しなくてすむためだけの」私立大学の設立が相次ぐ
・イランとの戦時下で、男性労働力を補うため女性が職場に進出
・停戦後、エジプト人労働者との小競り合い
そうした若年層の不満のはけ口がウダイの登場:
スポーツ省と民兵組織とマスコミ
「職業軍人の国軍に対するカウンターバランスを起用してきたフセインの対軍
政策と合致している。軍や党組織、または地域の部族社会でのヒエラルキーに
おいて低い地位にいるがゆえに逸脱しかねない、と同時に昇進への近道が与え
られれば容易にそれに引きつけられがちな青年層を、民兵組織の形で側近に
起用していった」(p286)
「大統領を核としたネットワークが最も効果的に機能するのは、党や国家におい
てすでに一定の特権を獲得している層に対してではなく、党や国家による支配
体制のマージナルな部分におかれた存在、すなわち昇進を保証する位階集団に
も属さず有力な部族・地縁的背景も持たない、ある意味で「寄る辺のない者た
ち」に対してであった」(p.298)
<終章>イラクであること、アラブであること
91年蜂起に対して、バアス党は「シーア派=劣等宗派」と初めて掲載
「蜂起自体がむしろ超宗派的に拡大してイラク全土に波及する恐れがあり、それ
に対して政権が蜂起主体を「シーア派」という宗派集団の間だけに押しとどめ
ようとしたからに他ならない」(p.328)
「フセイン・イラク政権の支配構造」(酒井啓子:岩波書店)