「ファルージャ 2004年4月」ラフール・マハジャン他:
 翻訳:益岡賢+いけだよしこ(現代企画室)1500円+税
 
 執筆陣は米英の学者、ジャーナリスト、NGO活動家の4人です。

・1991年湾岸戦争時:ファッルージャの市場に爆撃;約200人死亡
            他にも爆撃数件
・2003年3月:ファッルージャにも空爆
・4月28日小学校を占拠した米軍への抗議デモに発砲;約15人死亡
 (米軍は銃撃を受けたと主張。ヒューマンライツ・ウォッチ調査団は米軍への
  銃撃=弾痕などの証拠を発見できず)
・ファッルージャ現地指導者達が文民行政委員会を設置し、行政官と市長を選出
・6月30日:米軍がファッルージャのモスクを襲撃
・9月12日:米軍が地元治安組織の車を誤射;14人死亡
・9月18日:結婚式の祝砲を攻撃と誤認した米兵が発砲;少年1人死亡
・9月22日:米軍機が民家を襲撃;3人死亡
・11月2日:米軍ヘリ撃墜;米兵15人死亡
・2004年1月6日:米軍偵察ヘリ撃墜;米兵1人死亡
・1月8日:米軍ヘリ墜落;米兵9人死亡
・3月31日:民間傭兵会社ブラックウォーター社員4人襲撃
イラクの人々にはこれら「民間軍事会社の社員」と「米軍兵士」とを区別する
 ことは不可能であると思います。「民間人」を意図的に狙ったわけではないと
 思います。

「バグダッド・シュアラ地区から米軍が撤退させられたのは、スンニ派とシーア
 派の人々が団結して闘ったからであり、サドル師のマハディ軍ではなく、地元
 の組織化されていない人々の力であった」
「ファッルージャを救え!」という合言葉がイラク全土で巻き起こりました。
 ファッルージャへ向かう筆者達の車にも、沿道の人々が次々と食糧などを投げ
 込んでいました。

 ファッルージャでの停戦、しかし、実は、『停戦』とは、500ポンド爆弾を
投下していないという意味ではあっても、狙撃兵は狙撃を行っていました。
 ファッルージャでの被害の多くは、狙撃兵による狙撃です。
 しかも、家の前で狙撃された家族の遺体を、更なる狙撃を恐れて葬ることがで
きず、放置したままの状態が長く続く、、、まさに修羅場です、、、

 現地の診療所でボランティア活動を行っていたアメリカ人NGOの証言:
「米軍の攻撃の犠牲者がひとりまたひとりと診療所に運び込まれていたが、
 そのほとんど全員が女性と子どもだった」
「私がファルージャから報告できるのは、停戦など現在されていないし、おそら
 くはこれまでにも一度もなかったということである。イラク人の女性や子どた
 ちが米軍の狙撃兵に撃たれている。」(4/13)

電気が通っていないファッルージャの真っ暗な夜、サイレンを鳴らし、ランプ
を点滅させている赤新月社の救急車が何度も銃撃を受けています。
救急車を他の何かと間違えたなどとは考えられません。
 救急車が狙撃兵に撃たれ、女性と子供達が撃たれている光景に、
「私は47年間、バカだった。ヨーロッパの文明とかアメリカの文明といった
 ものを信じていたんだ」という悲痛な言葉には衝撃を受けました。
パレスチナでイスラエル軍が赤新月社の救急車を何度も銃撃していることを想起
せざるを得ませんでした。アラブの人達も同じようにアナロジーしたのではない
でしょうか? ここもパレスチナと同じになったと。

 ファッルージャの医師達は、米軍がクラスター爆弾と国際法違反と言われる
ダムダム弾を使用していると訴えています。


 スンニ・トライアングルはフセイン政権を支えていたとよく言われます。
ファッルージャもまた多くの軍将校等を輩出していたのですが、1995年、
ファッルージャのドゥレイミ族が反乱を起こし、鎮圧され、処刑者を150人も
出しました。
 そのため、ファッルージャの人々は、イラク戦争終結時点では、決してフセイ
ン支持ではなかったのです。むしろフセイン政権への怨念が深かったと言えるか
もしれません。また、フセインにとっても信頼できない地域だったのではないで
しょうか。
 少なくとも、フセイン政権の復活を願う勢力が多数を占めるとは思えません。
 つまり、米軍はそんなファッルージャの人々をむしろ味方にできたとも言える
と思います。

「とても信心深く、農耕に基礎を置く部族社会であるファルージャの人々は、
 狭量で、異邦人を容易には信頼しない」
「ファルージャの人々は、アフガニスタンのパシュトゥン人にとても似ている。
 良き友だが敵に回すと恐ろしい」
 ファッルージャの多くの住民は、サラフィスト(ワッハーブ派はサラフィズム
の一部)であり、フセインにより政治的迫害の対象として名指しされた集団です


「この地域のレジスタンスは、反撃されたときに銃弾がモスクに当たってはなら
 ないと、モスクの近辺からは決して発砲しなかったと、米兵たちは、繰り返し
 聞かされていたにもかかわらず」モスクに警告なく踏み込み、蹂躙し、何も発
 見できなかった。


 世論は日々刻々変化していくものだと思います。
 <米軍への評価>、<イスラム原理主義各派への評価>等々、、、
 しかし、ファッルージャでの件の時点では、イラクの世論は、
「『サドル師の信奉者はならず者だ』と言っていたのと同じ人が、今では『彼ら
 は我々のならず者で、残忍な占領者の手から我々を守っている』というような
 言い方をするようになっている」
 というように変化していたと思われます。
 米軍への評価は最悪となり、イスラム原理主義への否定的評価が相対的に弱ま
 ったのではないかと思われます。少なくとも、この時点では。
 

「ファルージャ 2004年4月」