「国連安保理決議を迂回して行われた軍事攻撃はイラクではなく
 このユーゴで最初に行われたのだ」と著者は言う。
そうなのだ、1999年、国連安保理決議なしで、宣戦布告もなく、
ユーゴ空爆が行われた。

 ミロシェビッチ政権による民族浄化から、コソボのアルバニア系住民を守る
という口実で、「人道的介入」という名の下に空爆が行われた。

「ベルリン・天使の詩」の脚本を書いた現代ドイツを代表する文学者ペーター・
ハントケは、孤立無援の中、ユーゴ空爆を「一国に対する世界戦争」だと
糾弾した。(「空爆下のユーゴスラビアで」同学社)

 確かに、空爆前から、相互の衝突による死傷者が出ていた。
これは事実である。
セルビア側からの蛮行があったのも事実である。
しかし、被害が質的にも量的にも飛躍的に増大したのは、
実は、空爆開始後なのだ。
空爆開始に激昂したセルビア民兵による、アルバニア系住民宅への放火、
殺人、追い出しにより90万人もの難民が生み出された。

 しかし、78日間に及ぶ空爆後、コソボのセルビア人20万人が難民となって、
セルビア本国へと流入した。
 コソボに残ったセルビア人3000人が誘拐・拉致され、1500人の遺体が
確認されている。
 UNMIK(国連コソボ暫定統治機構)とKFOR(コソボ治安維持部隊)の
統治下にあるにもかかわらずである。
 数々の証拠と共に、国際機関に何度も訴えているが、犯人は一人として
検挙されない。
 KLA(コソボ解放軍)は、NATO部隊と共に、旧ユーゴ連邦軍と戦った後、
そのままコソボの警察などの公的機関の要職に就いているのだから
当然の結果だろう。

 KLAは、その後、隣国マケドニアに軍事侵攻し、支配領域を拡大している。
セルビア本国へもジワジワと侵攻しつつある。


 コソボは、「世界で一番親米的なイスラム教徒のいる地域」だ。

アルカイダ、タリバンなど、米が育て、支援した組織が、その後、
米を標的にする。
KLAもまたそうならないという保証は全くない。
いや、もう既にその兆候は現れ始めている。

 コソボでは、「コソボのガンジー」と呼ばれたルゴバの非暴力直接行動という
穏健路線が主流だった。
KLAは極少数の武装組織にしか過ぎなかった。
アルカイダはKLAにムジャヒディンを送り込み、米国は、KLAをテロ組織と認定し
KLAと戦う用意があると発言していた。
KLAはセルビア警官や民間人、更には穏健派のアルバニア系住民までをも
テロの標的とした。


 麻薬、売春、武器売買では、セルビアとアルバニアのマフィアは協調している
そうだ。皮肉なもんだ。
 現職内務省の警視正がマフィアのボスを兼務するなど、セルビア政治の腐敗、
暗部も厳然と持続している。


 ミロシェビッチ政権を崩壊させた2000年の10月革命には、
米の民主主義革命のプロモートが刻印されていた。
後の、グルジア、ウクライナでの「民主主義革命の輸出」の雛形だ。


1991年、ドイツは、スロベニアとクロアチアを世界で初めて承認する。
1999年、ドイツは、ユーゴ空爆という第二次大戦後、初めて戦争に参加する。
こうしてドイツは、『普通に戦争をやれる国』となった。


 北部、ボイボディナ自治州、30もの民族、公用語は六ヵ国語。
州議長は一貫した反ミロシェビッチ派。
10回以上逮捕され、懲役代わりに激戦地ブコバルに送り込まれた。
ミロシェビッチによる反体制派への間接的な暗殺の仕方だった。
ボイボディナで最も人口が減ったのは意外にもセルビア人だった。
元々住んでいたセルビア人が出て行き、コソボ等からのセルビア人難民が
入って来た。
議長は語る。
「独立は全く考えていない。我々が願うのはあくまでも自治権の拡大だ。
 中央政府とのより良き連絡関係と立法の権利。独自に法を政策することで
 ユーゴの他の地域にも安定をもたらせたい」

 古き良きユーゴの匂いが残る最後の場所のようだ。


セルビアは難民大国だ。クロアチア、ボスニアから80万人、コソボから20万人、
計100万人の難民大国だ。
 空爆でインフラも破壊され、戦後の支援もクロアチアやボスニアよりかなり
後回しだ。
 コソボ難民へのセルビア本国での支援も不足している。
コソボ難民は、自分達は難民ではなく、母国政府からも見捨てられた棄民だと
思っている。
 コソボからのセルビア人の難民が、ベオグラードでコソボ訛りが虐めの対象に
なり、うまく溶け込めないという同胞からの差別もあるそうだ。


「自らの加害性を互に歴史として自覚し合ってこそ、真の民族融和の再構築が
 始まるのだ」と著者は述べている。

 私は、チトーを全面賛美するつもりは全くない。
しかし、民族融和に心血を注いだチトーの肯定的に評価すべきことはきちんと
評価するべきだと考えている。
 同時に、チトーの限界、否定面もそれとしてきちんと批判され、反省され、
教訓化されなければならないと考えている。
 例えば、チトーは、過去の諸民族の対立の歴史に対して、封印し、触れること
を法律で禁止した。
 しかし、それでは、何ら問題の本質的解決にはならない。
目を背けたくなるような陰惨な現実でも、真正面から受け止め、それと対峙し、
乗り越えることによってしか、本質的解決への道はないのではないか。

チトーの遣り残したこともまた、旧ユーゴ紛争の本質的要因の一つであると思う。

「終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ」木村元彦(集英社新書)