第一章 ユーゴスラヴィアの多民族戦争

 ユーゴは崩壊前の自主管理社会主義に於いても労働者間で利害対立があり、
「兄弟殺し」「パートナー殺し」「自主管理的殺人」が発生していた。
自主管理体制内在的な相互不信の最終形態。
 企業内外の特権集団が労働者に不利な方針を労働者自身に可決せしめる。労働
者にとって不利であることは、意思決定プロセスでは分からずに、実行の後に
分かる。このようにしてたびたび裏切られた労働者は、言論による決着を信じら
れなくなり、ピストルによる決着に走る。(「ニン」紙85年7月)

他のソ連圏であれば、経済危機を、「我々」とは異なる「奴等」の所為にして
済ませることができるのだが、ユーゴの自主管理社会主義では、そうはできない

ユーゴ連邦首相が90年に断行したIMF指導の下のショックセラピー。
既に長期に渡って十数パーセント存在していた失業者が更に増えただけでなく、
既に何年間も仕事を待っていた青年達にこれ以上待つことの意味を失わせてしま
った。マルクス経済学の産業予備軍というぎりぎりの社会的機能さえ期待されな
い青年ルンプロ集団が出現した。かくして世界はユーゴ内戦において、セルビア
でもクロアチアでも野心的民族主義的政治家が彼等をリクルートして、組織した
パラミリター部隊・私兵集団の活躍を目撃することになる。きちんとした正業を
有する青年達がそんな私兵組織にリクルートされたであろうか。

 ショックセラピー的体制転換=資本主義化の要は、生産手段や資金の急進的
私有財産化である。社会的ストック=国富の分捕り合戦が突如開始される。
一回限りの私有化ゲーム。階級形成闘争。一回戦しかないゲームで負けるかも
しれないという不安感情が急速に上昇する。他人や多民族は何か汚い手を使って
いるかもしれないという不信感情があっという間に人々を苦しめる。
 人々は不信・不安の社会的心理の解消を民族主義感情に求める。
 無機的なマルクス主義的社会主義は、有機的な民族主義の熱情の前にまるで
かつて存在しなかったかの如くである。

 全人民防衛ONO構想の徹底性は「憲法」の中で降伏権の否定を銘記した点。
ここに、諸民族の代表と称する親分達が署名する停戦協定や他の妥協文書が、
現場で効力を発揮しない一つの背景的理由がある。

 バートランド・ラッセルは、ユーゴで起こったことに関する真相が差し止め
られている事に対する責任はヴァチカンにあるという結論に達した。 

 ヤセノヴァツ収容所:セルビア人正教徒とクロアチア人カトリック教徒の
人間的・民族的和解ではなかった。
 チトー時代、ヤセノヴァツ強制収容所の記録は、発売禁止となっていた。

 ボスニアのカルスト台地の地下洞穴にセルビア人の死体が眠っている。
 チトーはこれにコンクリートで蓋をしていた。
 90年、遺体は掘り出され、ベオグラードで放映され、ウスタシャ憎しの
民族感情を高揚させた。

 チトーはクロアチア人、カルデリはスロヴェニア人。

 スロヴェニア独立:
 スロヴェニアは、カタリスト(触媒)であった。それ自身、バルカン半島の
破壊的不安定化ファクターではないが、セルビアやクロアチアという不安定化
ファクターを活性化させた触媒であった。

 イゼトベゴヴィッチ・ボスニア大統領は、「私も独立を要求しなければならな
い。そうしなければ私は殺されよう。しかしこのような措置は内戦に帰着する」

 当時の国連事務総長も「クロアチア承認がボスニアにおける内乱を惹き起こす
であろうと警告した」
 
 ドイツ外交に追随せざるを得なかったアメリカ。

 ボスニアからユーゴ連邦軍を撤退させる。現実に残留する大量の武装集団が
誰によっても(ベオグラードによっても、サラエヴォによっても)コントロール
されることのない野放しの民族主義的地元軍隊になる。

 92年、セルビアへの経済制裁決議直後、セルビアはガリ事務総長宛てに、
ボスニア領土に向かう武装グループの移動を禁止する有効な措置をとったと述べ
ると同時に、すでに「ユーゴ連邦とボスニアの国境に沿って、国連監視団による
国際的統制を実施するように提案していた」しかし、この提案は黙殺された。

 ユーゴ連邦軍は1941年以来連綿としてボスニアに存在してきた軍隊である
のに対して、クロアチア正規軍は1992年1月に国際的独立承認を受けた
ばかりの新国家の新設軍隊である。その軍隊が早くも隣国に出没している。
その事実が明記されつつも、然るべき演繹的推論が行われない。
まことに現代の理性の貧困化は、形式論理さえも御都合主義的に使い分け、
おそるべきものがある。
かくして、「侵略国」新ユーゴは、92年5月空前的規模の国連制裁の対象と
なり、「非侵略国」クロアチア共和国は、92年5月、国連加盟が喝采をもって
承認される。

「大」ユーゴスラヴィアに関しては対抗する諸民族の共存共栄が困難であるとし
、民族自決を掲げ、スロヴェニアやクロアチアを分離・独立させ、「小」ユーゴ
スラヴィアと言われるボスニア・ヘルツェゴビナに関しては民族共生を掲げて、
小ユーゴスラヴィアの一体性を強調する欧米主流の論法は、殿御無理でござると
嘆息するしかない論理の乱れである。

 ブコヴァルで双方の極端主義者によって欲せられた虐殺で頂点に達した。
大多数のクロアチア人は、休戦を望んでいた。しかし、トゥジマン・クロアチア
大統領派の人々は、バラガ(クロアチア国粋主義者)に率いられた好戦的少数派
の圧力の下で最後の一人まで戦わざるを得なかったし、向こう側においてもシェ
シェリ(セルビア国粋主義者)派の人々が同じことをしていた。彼等には血の
洗礼が必要だったのだ。西側のマスメディアは、ゲームにおいて極端主義者達の
躍進に手を貸すことによって、衝突の先鋭化に対して重大な責任を負っている。


 第二章 ユーゴスラヴィアの成立とその軌跡
 1948年、コミンフォルムから破門される。
ソ連派を逮捕、投獄。アドリア海の小島ゴリ島(ゴリオトク)に。1万5千人。

90年自由選挙。旧共産主義者同盟は、社会党等に改名。しかし、セルビアで
社会党が勝利したのにである中で、唯一モンテネグロでは共産主義者同盟が勝利
 モンテネグロの人口42万人のうち、4900人弱がコミンフォルミストとし
て投獄。1990年公式に名誉回復。彼等はゴリオトク協会を結成して、40年
の怨念を晴らすべく、選挙戦をたたかった。その結果、共産主義者同盟が改名も
せずに、モンテネグロでは大勝したのである。

 ユーゴ自主管理社会主義は、一般労働者大衆の下からの創造によるものでは
なく、コミンフォルムから破門されたユーゴが、ソ連圏との相違性を打ち出す
為に、生み出されたものである。

 市場社会主義は、増大する失業に対しては西側への労働力輸出策によってしか
対処できなかった。
 市場化改革の当然の結果として、大企業経営者・テクノクラート層が社会的
実力を強め、党エリート層の政治的コントロールを離脱する。
 
 自主管理社会を非自主管理的方法で、すなわち党社会主義体制の事業として
実現しようと試みた。ここに、その本源的矛盾・本質的無理があった。

「ユーゴスラヴィア:衝突する歴史と抗争する文明」
(岩田昌征:NTT出版)