著者は、イスラエルのユダヤ人作家。
イスラエル国籍を持つ、パレスチナ系イスラエル人、
つまり、イスラエル国内のパレスチナ人へのインタビュー集。
さまざまなタイプの人達が登場する。

 本書は1992年に発刊された。13年前の著作だ。
その間に実にさまざまなことが生起した。
しかし、本書の本質的な意義は少しも色あせていないと思う。
細かい数値には、その後変動がある程度だと思う。
13年経っても本書の意義が少しも損なわれていないということ自体が
問題だと言えるかもしれない。

イスラエルの人口の約2割はアラブ人だ。
イスラエル国籍を持つアラブ人。
イスラエル・パレスチナ人は、約120万人。
彼らの納める税金は、イスラエル軍の費用にもなる。

イスラエル国内でイスラエル国籍を持つパレスチナ人。
西岸・ガザ地区のパレスチナ人。
この両者の間には、同一性と区別性が存在する。
その区別性は、決して小さくはないということを学んだ。
数十年間も全く異なる政治体制の中で生き、成長してきたのだから、
それは当然のこととも言える。
全く異なる政治システム、価値体系、価値意識、日々の生活、教育制度、
市民社会、日々聴く音楽さえ違う。

 もちろん同一性も大きい。
例えば、インティファーダには連帯した。
ただし、経済的、精神的連帯に限定されていたが。

 例えば、こんなエピソードが記載されている。
イスラエルでアラブ人女性の人権団体を立ち上げた進歩的女性が、
西岸ナブルスの叔母の家に泊まっていた時、占領軍に協力する者を取り調べる
現場に出くわした。「ねえ、調べるのはいいことだわ」と声を掛けた。
イスラエル軍が路地に入って来た時、短刀でその少年を刺し殺した。
「ただ兵隊が来たので殺したわけ。ちっとも調べもしないで、みんな逃げて
 しまった」
 イスラエルで民主主義的価値観で成長してきたこの女性には、
こんな非民主主義的なことは許容できないのだろう。
どうも西岸・ガザの同胞の価値観、考え方、感じ方に違和感を覚えるのだろう。
 
 イスラエルでは二級市民として扱われる彼らだが、
西岸・ガザのような極貧の生活を送っている訳ではない。
インフラ、医療制度、教育制度、地方自治体選挙等々が異なる。
アラブ人首長の地方自治体も多い。

 それなりに豊かな生活をわざわざ失いたいとは思わない。
西岸・ガザの同胞には経済的支援は行っている。
イスラエル軍による蹂躙を受けたいとは思わない。
イスラエル軍の検問は非人間的だと心底思う。
西岸・ガザで、日々、検問所で何時間も待たされる同胞には、
心底同情するが、自分がそういう目に遭いたいとは思わない。

 また、西岸・ガザの人々による侮蔑・軽蔑の念も強いようだ。
「48年組」と見下している者も多かった。
そういう風潮も確かに、しかもかなり強く存在するようだ。
侮蔑とコンプレックスという基本的二要因。
自国イスラエル政府とも、またパレスチナの同胞とも、
齟齬をきたしているのも事実のようだ。
そういう二重の矛盾の中で日々生活している。
その精神構造とは、どういうものなのだろうか。

筆者は書いている。
「一時間でも彼らの立場に、彼らの境遇に身を置いてみれば必ずわかったことだ」
 そうなのだ。
我が身を移し入れようとしさえすれば、色々と見えてくるものがある筈なのだ。

 彼らは、ただ為すがままにされ、受動的に生きているだけではない。
その置かれている状況に踏まえ、反政府の武力闘争は行わず、
合法的な活動のみに限定して、自制的に活動している。
イスラエルの地方自治体選挙を通して、
アラブ人首長の地方自治体も多く生み出されている。

 それで、自己安住している訳でもない。

 満たされたものと、満たされないもの。
同胞との埋め難い深い溝。

 イスラエル独立宣言に書かれている
「イスラエル国家のアラブ人住民が平和な生活を維持し、あらゆる組織や機関で
 完全にして平等な市民権としかるべき代表権があるものとする」という
文言実現に向けて努力しているとも言える。

現実的な選択を採っている。
本質的解決とは何かという深い実存的問い掛けを続けながら。



 中には、進歩的、近代的な考え方の女性も生まれている。
「占領当局が宗教的な動きが広がるように手を貸すと、宗教を盾に取って、
 男どもがまた女達を抑圧し始めたの。でも男が女を抑圧するのはコーランが
 そうしろと命じているからじゃなくて、男達が自分に都合のいい文句を
 コーランから選んでくるからなの」
「私達に本当に自分達の一員になってもらいたいと思っている人なんて、
 誰もいないわ」
「窓の周囲は、私が訪ねたパレスチナ人の家の窓の周囲が全てそうであったよう
 に、ペンキがぼろぼろにはげ落ちている。湾岸戦争の時に化学兵器による攻撃
 に備えて窓を密閉するのに使われた粘着テープを取った時の古傷だ」
「アラブ諸政党の集会に参加した三百人の出席者に向かって、
 何故この場に女性が一人もいないのか説明して欲しいと迫った」
名誉の殺人で「毎年ざっと40人の女性がイスラエル内で殺されている」

パレスチナの国旗を描いている生徒に見て見ぬふりをする教師。
注意すれば裏切り者と言われ、黙認すれば首にされるから。
「こんな状況のもとで、子供達に物事の価値とか正直さ、
 勇気とかいったものを教えられるでしょうか」

バルタア村は1949年、突然、両側に二つに引き裂かれた。
一つの村が別々の歴史を過ごした。
今、両者の間には微妙なズレが横たわっている。
一方は、「48年組」と馬鹿にし、他方は、コンプレックスを抱いているようだ。

 1949年、イスラエル内のアラブ人居住者約16万人の内、半分の8万人は
「国内に存在する不在者」となった。
全国的な国勢調査が行われた時、その場に居合わさなかった。
その財産・土地の所有権は不在者財産管理人の手に移管された。

アイン・フード村
イスラエル国家が全く認知していない51あるアラブ人居住地の一つ。
「もう難民の経験はしたんだから、自分自身の汗で築き上げたものを捨てて
 もう一度難民になるなんて、とてもできるもんじゃない。そういうもんだ」

イスラエルのアラブ人の幼児死亡率はユダヤ人の二倍。
イスラエルのアラブ人賃金労働者の92%が社会階層の下半分を構成している。
イスラエルのアラブ人の子供の10人中6人は貧困生活者。
ユダヤ人の子供は10人中1人。

 イスラエルの「アラブ人は世界で一番静かな少数派。理想的な少数派」

 1964年までシリアの共産主義者はイスラエルのアラブ人共産主義者と
同席しようとはしなかった。

「我々アラブ人地区には密告者というけっして小さからぬ問題があるのです」

 1991年、和平交渉ではPLOがイスラエルのパレスチナ人を代表するとの宣言に
「PLOは我々を代表するものではない。イスラエルとの交渉で我々を代表する
 のは、イスラエルのパレスチナ人、我々自身だ」

ユダヤ人入植者のプールに子供を連れて行った所、子供の話すアラブ語を聞いた
チケット売り場の女性が、入場を断った。反論すると彼女は泣き出した。
その後、電話を掛けて来て、今度は無料で来て下さいと謝った。
しかし、二度と行かなかった。
チケット係の女性はホロコーストの生き残りだった。

 1960年代にはガリラヤには15万人のユダヤ人がいた。
10年後には1万3千人。
ガリラヤでは、土地、多数派を構成する集団。
民族統一と自治政府を成り立たせる二大要素がある。

 イスラエルではアラビア語は公用語なのに、
重要な道路標識がほとんどアラビア語で書かれていない。

 イクリット村、アラブ人キリスト教徒の村。
1948年、15日間だけ村を離れろと言われ、離れたが、二度と再び戻れることは
なかった。
1951年訴訟、高等裁判所は直ちに返還という原告を支持する判決。
住まわされたラマという村もまた、その村人達は別の所へ移らされていた。
二重の悲劇。
選挙には参加しない。参加すれば現状を肯定することになるからだという。
政府の補償案を受け入れたのは、ごく少数だった。
1972年からは、元の村に埋葬することは許された。
「囚人だってわしらよりはましだ。
 わしらの監禁状態はいつ終わりになるかわからんのだから」

 イスラム運動の奉仕活動のキャンプが全国に広がった。
かつて非合法化されたイスラム運動を教訓化し、
合法的活動のみに意識的に制限している。
これまでの七年間でこの運動は七つの地方自治体を「征服」する。
イスラエル労働総同盟でも着実に力を伸ばしている。
イスラム・サッカー・リーグを設立した。
この十年でイスラエルのアラブ人集落には百を越すモスクが建てられた。
「アラブ世界で自国のイスラム運動を認めている政府は一つもありません。
 もしも我々が力を握れば自分らの政治体制が終わりだということを知って
 いるのです。私達が幸運なのは、イスラエルの政治体制がアラブ世界とは
 違うということです。民主主義があります」
「私達は戦う訳にはいかない少数民族として生きており、イスラム教の原理に
 よれば、イスラエルと戦えとは言われていないのです。イスラム教の教えでは
 もしもお前が少数派なら、お前を支配している国の安全を損なうような行動を
 とってはならぬ。ただし、その国でお前がムスリムとして生きることを許され
 ているとしての話だ」
 スンニ派はムスリムが無防備な少数派である時は、支配者への反抗を控える
ように説いている。

 「国籍」という言葉に相当するヘブライ語がない。
その為に生じる問題。

「屈辱がスローガンになっていて、合理的にものを考えようとせず、
 むしろ屈辱を合理化しようとしていた」
「何もかも政府が悪いんだといういつもの言い方は、もうたくさんです。
 私達も悪いんだ。私達はすばやく自己批判しようとしない」
「インティファーダは自分達を救い出す行動だった」
「私達は遅れています。自分が生きている時代を生きていない」

 イスラエルのパレスチナ人は個人主義に陥っているという。
イスラエルで発行されているアラビア語の新聞には、
パレスチナ系イスラエル人社会内での出来事以外はまず相手にしない。
「その場にいながら現実にはいない人々」
「世界で一番おとなしい少数民族」

・非都市地区地方自治体に住む全体の30%のアラブ人は、
 提供される開発資金の6%しか受けられない。
・アラブ人地方自治体の一人当たりの予算はユダヤ人入植地の四分の一。
・アラブ人農民は農地の17%を耕作しているが、
 割り当てられた水はイスラエル全体の農業用水の2.4%にすぎない。
・ユダヤ人の農業単位に割り当てられた水は14000立方メートル。
 アラブ人の農業単位に割り当てられた水は 1500立法メートル。
・民政委員は、アラブ人五千人に一人、ユダヤ人1800人に一人。
・身体障害児用施設の内、アラブ人用は4%。国全体の障害児の24%はアラブ人
・アラブ人公民館は四つ、ユダヤ人公民館は126。

 1989年の調査では、ユダヤ人の約80%とアラブ人の75%が
イスラエル以外の所では暮らしたくないと答えた。

 筆者は書いている。
「一時間でも彼らの立場に、彼らの境遇に身を置いてみれば必ずわかったことだ」
「私は行動しなかった。知らなかった。覚えていなかった。そして考えなかった」

 イスラエル独立宣言にはこう書かれている。
「イスラエル国家のアラブ人住民が平和な生活を維持し、(中略)その基盤には、
 あらゆる組織や機関で(中略)完全にして平等な市民権としかるべき代表権が
 あるものとする」

「ユダヤ国家のパレスチナ人」:デイヴィッド・グロスマン(晶文社)