ここんところ、イラク、アフガニスタン、パレスチナ、旧ユーゴの本を
ずっと読んでいる中で、この本もたまたま買って読んでみました。
 本の帯には、幼稚園の保母さんが書いたとあるので、ああ、
幼稚園の保母さんが、パレスチナの子供達が可哀想と思って
書いたんだろうな、だいたい、「パレスチナが見たい」なんて、
自分は、安全な外から眺めるという客観主義丸出しだなぁと
思っていました。
 しかし、この先入観はものの見事に外れました。
とっても心地よく外れました。

 著者は、「自分が全くこの問題について知らなかったことに
ショックを受け、倒れそうになりました」と書いています。
もう一つの直接的なきっかけは、9・11のテロを、
「このテロはなぜ起きたのか。報道より先に、自分自身への
問いかけが必要だと感じて」
パレスチナへとたった一人で旅立ったのです。
 まず、その行動力には感心させられます。もう完全に脱帽です。
 しかもそれだけではありませんでした。彼女の真摯な姿勢、
純粋な魂に感動しました。
 それは自分自身を問うということです。自己否定的な姿勢に
感心しました。
 例えば、パレスチナの難民キャンプを巡るのですが、その時、
同行した人が、難民キャンプの子供にチョコレートを差し出すと、
「ノーサンキュウ」と丁重に辞退します。
誰一人物乞いはしない。それどころか、「ウエルカム」とか
「シャローム」(ヘブライ語)
という歓待の言葉で訪問者をもてなすのです。
「難民キャンプの難民は惨めで、物乞いをするもの、私達は
常に上から手を差しのべる立場」
そういう自分に「ゾッとしました」と自己否定的です。
 また、イスラエル軍によって、破壊され尽くし、硝煙も
まだ生々しい難民キャンプで、外部から来た知らない人を
これほどもてなすことが、自分にはできるでしょうかと、
自己に問うています。
 「市民を狙った自爆行為を、私も受け入れることはできま
せん。...けれども自爆攻撃を非難する私たちは、何か
変わりになるものをこれまで彼らに提示してきたでしょうか。
この問題を新聞で読み流し、世界の片隅の出来事として片づけ
てしまうことのできる、なに不自由のない暮らしをしている
私たちが、彼らの目を見て、抵抗を止めなさいと言えるで
しょうか。」

 う〜ん、もう私は彼女に完敗です。
私はもう随分前から、パレスチナのことは、知って
はいます。知識として知ってはいましたが、何もできません。
少々心で悲しみ、憂えていただけでした。
まあ私の方が、本等で、もう少しは知識は持っていたと思います。

 しかし彼女は、知らなかった自分に、
「ショックを受け、倒れそうに」なり、
 難民を上から見下ろしていた自分に、
「ゾッとしました。」
 彼女のこの「傍観者」でしかなかった自分を問い
直し、否定していく姿に、もう完敗です。
 学者然とした評論や、客観主義を装うニュース
とは、根底的に異なった質を持っています。
 
 彼女の行動力に、自己を問い直し否定していく
姿勢に、真摯な姿勢に、私なんぞは、もう完敗です。
 それは、私の薄汚れ、穢れきった魂、随分とよじれてしまった
精神を照らし出す「鏡」となりました。
 しかし、この完敗は心地よい完敗でもあります。

 この書物は、一つのリアルな、生きた現実に対して、それに
否定的直感を持ち、それをバネにして、生きた現実に、自己否定的に
迫ろうとしている、美しい魂を感じさせられます。

 私もまた、この姿勢を共有したいと思っています。
しかも、この否定的直感は、出発点にしかすぎません。
 この否定的直感をバネにし、背後から衝き動かされながら、
更に現実に迫っていかなければなりません。
 具体的には、現段階の<アメリカの世界支配戦略>は何か?
それに基づく<パレスチナ和平>の中身は?
 イスラエルの<保守党>の<戦略>は?
 野党<労働党>の<政策>は?
ユダヤ人といっても、現在のアメリカ社会のユダヤ人の考えと
イスラエルのユダヤ人の考えでは、同一性と区別性があると思います。
アメリカのユダヤ人の方が総体的には、より穏健で、
イスラエルのユダヤ人の方が、総体的には、より過激だと思います。
イスラエルでの平和運動の動向は?
 人口600万人のイスラエルでは、1000人以上の「兵役拒否者」がいます。
ここ数年で急増しています。占領地での残酷さに、イスラエル人自身が
気付いているということだと思います。
 
 PLO主流派<ファタハ>の<戦略>は?
反主流波<ハマス>の<戦略>は?
 ...等々...


 「パレスチナが見たい」

 森沢典子著(TBSブリタニカ:1200円)