パレスチナとイスラエル双方へのインタビュー集です。
時期は93年から2003年までの10年間です。
インタビューした人達は、政治指導者、経済専門家、弁護士、大学の研究者、
学生、難民キャンプの住民、ユダヤ人入植者、自爆攻撃実行犯の家族、自爆テロ
の被害者と家族、農民、家屋破壊の被害者、イスラエル軍兵士、平和活動家。

 私にとって衝撃的だったのは、PLO一部指導部の腐敗のリアルな内実を
知ったことでした。
 第一次インティファーダを自発的・自然発生的に闘い、イスラエルの銃弾に
傷付き、圧政に耐え、ようやくパレスチナ自治がまがりなりにも始まりました。
しかし、パレスチナ自治政府により逮捕・拷問され、表現の自由もなく、一部
高官の腐敗や、自治政府そのものの圧政・腐敗に、心底失望しました。
 深い、深い絶望だと思います。
 敵からの外からの外圧には耐えることはできても、内部からの味方だと信じて
いた側からの抑圧、裏切りに対しては人間はもろいものだとも思います。
 人間精神のその内側から、その実存的支柱をへし折るものでした。

 また、防護壁が完成すれば、パレスチナ全土の9割をイスラエルが所有し、
残り1割の水利源を取られた残り地で、北・中央・南と3分割され、その相互を
行き来するにも、イスラエルに阻まれている、パレスチナ分断国家など、国家と
呼べるシロモノではもはやないということを知りました。
 シャロンの実に巧妙な戦略、つまり、住民を強権的に追放するのではなく、
『自らの意思で・自主的に』=『這うような(ゆっくりした)追放』戦略


 <1>自爆テロ

 バス自爆テロから生還した女性兵士は、憎しみを感じるのは、
「アラブ人全体に対してではなく、バスを爆破したその本人に対してです。」
「私は彼らが行う個々の犯罪に対して憎しみを抱くのです」


 <2>オスロ合意とパレスチナ自治政府

 経済問題:占領地の経済もイスラエルに従属させられています。
農産物のイスラエルへの輸出は厳しく制限される一方、イスラエル産の農産物は
自由に占領地に持ち込まれ、占領地の農業に大きな打撃を与えました。

 水源問題:占領地では水源はイスラエルに完全にコントロールされ、自由に
井戸を掘ることもできず、規制の井戸からの水の使用も厳しく制限されました。
 
 67年の第三次中東戦争以降、工場の建設や原材料の輸入も制限され、占領地
内での独立した工業の成長が抑制されました。イスラエルの工業製品は大量に
占領地に流入しました。占領地で自国と競合する工業の発展を抑え、占領地を
イスラエルの製品の市場(マーケット)として利用しました。あふれた労働者を
安価な労働力としてイスラエル経済に取り込んでいきました。

オスロ合意以降も入植活動を続けており、94年末までに入植地人口は25%増

 パレスチナ警官6000人への給与などの膨大な経費が海外援助の使途の大き
な部分を占め、ガザ地区の開発・住民の生活向上を遅らせています。
 パレスチナ自治政府の財務省によってではなく、公安当局や諜報機関、また検
察当局によって非合法に住民から”税金”や”懲罰金”が徴収される例も多発し
ました。「パレスチナ人権モニター」によると、97年から一年半ほどで29件
が報告されています。しかも徴収された金は全く財務省には渡っていません。
 「パレスチナ人権モニター」が把握しているだけでも、99年までの5年間に
20人のパレスチナ人がパレスチナ警察によって拷問死しています。
「自治政府に対する恐怖です。当局に意見を言うことを恐れているんです。自由
に発言できないんです」
 95年、アラファトは「大統領令」を発布し、「国家治安裁判所」を設立した
軍人によって裁判官や検事が構成され、罪状と証拠は公表されず、被告の控訴を
認めるかどうかはアラファトの判断に任されるというものです。
「法と人権のためのガザ・センター」の弁護士は「軍事法廷の創設は民主主義の
基礎と司法の独立を脅かすもので、パレスチナ社会の軍事化への始まりになって
しまう」と警告しました。
パレスチナ自治政府の政策の背後にはアメリカとイスラエルの強い圧力がありま
す。しかしそれは言い訳にはできません。

PLO指導部はヨルダン、シリア、レバノン、エジプト、チュニジアと転々と
してきました。これらの国々は大半が独裁政権下でした。PLO指導部はこの
ような政治環境に影響されてきました。

「パレスチナの政治的な危機とみえる自治政府の欠陥は、好むと好まざるとに
 かかわらず、過去のパレスチナの歴史がもたらした”産物”であり結果なので
 す。あらゆるパレスチナ人に責任があり、誰もその責任から逃れることはでき
 ません」

91年マドリッドの中東和平会議でパレスチナ代表団団長を務めたハイデル・
 アブドゥルシャーフィーは、オスロ合意に批判的でした。96年パレスチナ
 評議会選挙に立候補しました。選挙をボイコットしたハマスなどオスロ合意反
 対派からは、「オスロ合意に反対しながら、なぜ選挙に立候補するのか」とい
 う批判の声も上がりました。しかし、アブドゥルシャーフィーには「パレスチ
 ナ社会に民主主義を根付かせるためには選挙は不可欠」という信念がありまし
 た。
 
 ガザでトップ当選した彼は、しかし、1年9ヶ月後、評議会議員を辞任しまし
た。
「自治政府とその政府幹部は、評議会の決議を尊重あるいは採択せず、その結果
 、評議会は完全に無視されてしまいました。こんなやり方はパレスチナ憲章の
 原理に反すると説得し、努力しました。社会・評議会・政府組織・司法制度を
 組織するような基本法を起草しました。しかし承認されませんでした」 
「いまだに独立した司法を持っていません。また法的な原理への真の意味での
 尊重はありません。それは深刻な問題です」
 政府幹部の腐敗に対しては、
「調査はやりました。委員会を結成し、その調査結果を支持しました。それに
 よれば、間違いなく腐敗があり、中には閣僚も関わっていました。しかし評議
 会の報告書は政府幹部によって無視され、私たちの提言実施されませんでした
 。評議会自体もその後この問題について沈黙することで自らの役割を損ねてし
 まいました。だから私は議員を辞任したのです」
 民衆はなぜ抗議しないのかという問いに対して、
「怖いから、というのがあります。そんなことをしなくても拘留されたり、投獄
 されたり、拷問されたりしています。人々は脅かされています」
「パレスチナ自治政府自身が民間企業や独占企業を通して経済活動を行うように
 なり、ガソリンや他の燃料、セメントなどの建設資材、そのほかの分野での
 独占状態が民間投資家たちを崩壊させてしまいました」
「自治政府や民間セクターの人間が企業を所有するだけでなく、その企業が他に
 はない特権を握ったのです。まず彼らは税金を払いませんでした。公務員とし
 て給与が支払われている労働者を、その企業が給与を払わずに自由に使って
 いたのです。土地を無償で入手できます。これらすべてが市場での自由競争を
 妨げていることは明らかです」


 <3>第二次インティファーダの勃発

・2000年9月シャロンがハラム・アッシャリーフ(神殿の丘)訪問
・これを機に第二次インティファーダが勃発
・その後3年が過ぎ、パレスチナ側2800人、イスラエル側1000人の死者
 
 <背景>には、
・2000年7月キャンプデービッドが失敗
 パレスチナの77%を諦め、23%のミニ国家を受け入れるつもりでした。
 しかし、
  ・東エルサレムの主権
  ・入植地の撤去
  ・67年の境界
  ・帰還権
  これらについて、諦めろという圧力にアラファトは拒否

 イスラエルの反応は、『これ程譲歩したのに』『前例のない寛大な提案』を
したのにもかかわらず、パレスチナ側が拒否し、しかも、インティファーダと
いう暴力で答えたと受け止めます。
 その結果、「和平」と、それを推し進めた左派へのイスラエル国民の幻滅と
社会の右傾化がもたらされます。

 ハイファ大学講師のイラン・パペ氏は、
 イスラエル「国民は間違った情報のキャンペーンの犠牲者」
1.数字のトリック:西岸の90%を与えると言いながら、その中には西岸の三分
 の一は含まれない。実際には西岸の三分の二の90%、つまり60%程度
2.エルサレムの主権を分け合うという提案がない
3.パレスチナ独立国家については何も言及していない

「ヨルダン川西岸地区の10%をイスラエルに併合した残りの90%の土地も、
 意図的にパレスチナ人の人口密集地の中に建設された37の入植地によって
 ユダヤ人に分割され、実際は、200万人のパレスチナ人は西岸の50%から
 なる孤立領土に暮らすことになり、残りの40%の土地はおよそ4万人の入植
 者たちの”防衛網”によって分割・遮断されてしまう」(イスラエル紙
 「イディオット・アハロノット」01年7月:タニア・レインハルト氏)

「入植者たちのために西岸の9%を併合するが、その代替地としてイスラエル内
 の土地を与えるという提案は、実はその比率は9:1という全く不利な交換」
 (ニューヨーク・タイムズ01年7月8日:ロベルト・マレイ:クリントン
  政権特別補佐官)
 マレイ氏は、
 パレスチナ側は「ユダヤ人入植地をイスラエル側に組み入れるために西岸の
 土地の一部を併合する提案を受け入れていた。帰還権についても、帰還者の
 数を制限することでイスラエルのユダヤ人の人口比率や安全保障の利権を守る
 ことに同意していた」
「つまり、「パレスチナ人側はまったく妥協しなかった」というイスラエル側の
 主張は事実ではない「神話」だとマレイ氏は言うのである」

<インティファーダによる経済的打撃>
・パレスチナの輸出入の90%はイスラエルだったのが、全面的にストップ 
・インティファーダ以前は、食糧・生活費援助を受けていたのは3万家族でした
 が、以後、20万家族に増加。パレスチナ人の三分の一が全く収入がない状態

 <イスラエル社会への影響>
・観光客の激減(ホテル稼働率10%へ)
・恐怖心:繁華街へ外出しない(国内消費冷え込みの一因)、バスに近づかない
・01年バラク(労働党)に投票した国民の内、68%がシャロン支持に変更

「これまで自分達が『和平プロセス』と呼んでいたものが実はパレスチナ人に
 とっては全く違っていたということを認識すべき」「もしパレスチナ人として
 占領地に暮らしたら、これが『和平プロセス』だとは信じられないはずです。
 『和平プロセス』以後も以前と全く変わっていなかった」のだから。
 (ピースナウ・エルサレム代表)

「『もし入植地政策や封鎖政策が続き、我われに屈服を強い続けるなら、我われ
 は受け入れられない』というパレスチナ人側の警告にイスラエル人は耳を傾け
 ようとはしなかったのです。私はそのことをずっと記事にしてきました」
 (『ハアレツ』氏記者)


 <4>分離壁
 農地の87%が分離壁によって切り離されたジャユース村にて、
 第三次中東戦争以前のライン=グリーンライン上にではなく、6キロもパレス
チナ側に入った所に分離壁を建設するのはなぜかとの問いにパレスチナ農民は、
「土地と水を奪い、私たちをこの土地から移動させるためですよ」と答えました
 フェンスの反対側となってしまった農地へ行くのにイスラエルの通行許可書が
必要。農地へ出る農民の50%にしか出されていません。しかも1歳の子供や
老人、既に亡くなった者には出されているのです。
「これは世界に向けて『通行許可証は出している。これはイスラエルのセキュリ
 ティのための処置だ』と示すためのショーなのです。これは間接的な土地の
 没収なのです」
しかも、通行は、朝、午後、夕方のそれぞれ15分間ずつだけ。しかもその時刻
は定められていません。ある時は7時半、ある時は11時とか。
 更には、その通行許可証には「この許可書はその土地を所有していることを
証明するものではない」と書かれてあります。
 イスラエル側は壁建設の用地として没収する土地の補償金を農民に提示します
しかしそれを受け取ることは結果的に、パレスチナ社会で厳しく禁じられている
ユダヤ人への土地の売却とみなされるため、農民はその補償金を絶対受け取ろう
とはしません。イスラエル側もそのことを十分承知の上で補償金を提示するので
す。
 隣のカルキリヤ市は、周囲を全て分離壁で囲まれ、唯一の出入り口はイスラエ
ル軍の検問所になっています。
 この検問所で2、3時間待たされることは日常茶飯です。ラマダン中、空腹と
渇きに耐え、炎天下で数時間待たされることは拷問です。時には完全に封鎖され
ることもあります。03年10月4日から24日間完全封鎖されたこともありま
す。
 商業は90%ダウン。
「カルキリヤは世界でも最も大きな刑務所です」(肉屋の主人)
「住民の80%が援助によって生活」
「カルキリヤ市民は宗教的過激派への支持率は12%から26%へ。穏健な
 ファタハへの支持率は76%から24%へ」(カルキリヤ市長)

「カルキリヤ住民の中にはイスラエルの身分証明書を持っている者もいます。ア
 メリカやヨーロッパのパスポートを持っている者もいます。彼らはイスラエル
 へ行って自爆攻撃することだってできます。今では、何も持たずにイスラエル
 へ行っても、市場に出回っている簡単な化学物質で爆発物を製造できるのです
 。トンネルを掘ってイスラエルへ行くことだって可能なのです。つまりやろう
 と思えば、いくらでも方法はあるのです。だから壁によって、自爆攻撃を止め
 ることはできません」

「ヨルダン川西岸地区の50%もの水源がカルキリヤ地区の西部水源地帯に集中
 しています。イスラエルは、アメリカがユダヤ人入植地アリエル周辺の土地を
 没収して壁の建設を進めることに反対し、財政援助ストップの脅しをかけても
 その建設を遂行しています。それは水源のためです。水源と土地と主権を奪う
 シャロン首相の戦略です。水と土地と主権のない国家なんて成立しません。
 この三つを奪い、将来いかなるパレスチナ国家も実態として成り立たなくする
 ことです。さらにシャロン首相の狙いはパレスチナ人の街から住民を追い出そ
 うとする『住民移送(トランスファー)』です。水も土地もなく、街へ出入り
 する自由がなければ、住民は街を出ることを考え出します。つまり間接的な
 『住民移送』なのです」(市長)
「現在の状況では、住民をバスに乗せ、強制的に外へ追い出すことはできないと
 いうことを知っています。しかし彼(シャロン)は間接的なやり方でそれを
 実行しています。つまり住民を移住しなければならない状況に追い込み、彼ら
 が自分の意思で移動するのを待っているです」(市長)

 分離壁のアイデアは第二次インティファーダ以降、労働党の中道派、穏健左派
から提唱され始めました。それは、グリーンライン上に壁を作り、入植地は撤去
するというものでした。この計画に対し、当初、右派は反対し、左派が支持して
いました。しかし、シャロンは労働党の政治家より『賢かった』
シャロンは、これを逆手に取り、壁建設を始めました。
イスラエル国民の世論は労働党によって『壁はイスラエルにとっていいことだ』
と教育されていました。

イスラエル歴史学者の中のニュー・ヒストリアンと呼ばれるグループの一人は
 分離壁により残された全パレスチナの10%の土地について、シャロンは、
『その10%の土地を”パレスチナ”と呼ぼうがどうしようがかまわない』と
 言っています。これが国家として存在しえないことを知っているからです。
つまり『パレスチナ国家』のアイデアの全ての終わりを意味するからです。国家
として存在することは不可能なのだからです。しかも残りの10%の土地に残さ
れたパレスチナ人達を、イスラエルは他の地域に追放する必要はありません。
彼らはその状況に耐えられなくて自らその土地を離れてしまうでしょう。
 西岸は5000平方キロです。壁が完成すれば、そのうち2500平方キロが
イスラエルに併合されます。残りの2500平方キロがパレスチナと呼ばれるよ
うになります。そして壁のイスラエル側に何十万というパレスチナ人が取り残さ
れます。イスラエルは”追放”を急ぎません。それを一日で終える必要はなく、
大量追放する必要はないのです。(『這うような(ゆっくりした)追放』)
 全てのパレスチナ人を併合した地区の全域から追い出そうとしたら、アメリカ
でさえ反対するでしょう。しかしもっと巧妙にやれば反対はしないでしょう。
パレスチナを南アフリカの属国バンツスタン、ミニ国家のようにし、生存する
能力を失わせ、戦争のような手段ではなく、また全面的な追放ではなく、間接的
にパレスチナ国家というアイデアを破壊してしまう。非暴力的手段で、存在でき
なくしてしまう。そして外に向けて、『我われが手を加えたものではない。パレ
スチナ人は国を持てばよい。エリコなどにパレスチナの国旗を掲げ、そこを
”パレスチナの首都”と呼んでもいい。』と言うのです。それはつまり”パレス
チナ”の最後です。(ジェノサイドならぬカルチャノサイド)

 労働党の人達が『誤ってパレスチナの少女を撃ったイスラエル兵の精神的な治
療』などを話題にしているのに驚いています。兵士のことよりまず撃たれた少女
とその家族のことから話が始まらなければならないはずです。彼らこそ本当の被
害者だからです。これが全てを語っています。

 イスラエル人口の20%、100万人はアラブ系市民で、二級市民として扱わ
れてきました。イスラエル国家はセミ・アパルトヘイト国家です。
法律によって土地を非ユダヤ人に売ることを禁じています。だから、アラブ系
イスラエル人がいくら人口が増えても、強制的に追放する必要はありません。
狭くひどい状況にすればよいのです。彼らは自分から外へ出て行きます。

「現地ルポ:パレスチナの声、イスラエルの声」
土井敏邦(岩波)2520円