2000年7月18日東京地裁 ドミニカ移民訴訟第一次提訴
 昭和29年(1954年)ドミニカ移民の募集
「カリブの楽園ドミニカ共和国」(日経新聞)
「ほくほくの条件」(朝日新聞)
敗戦後の日本、外地から600万人が引き上げ。失業者が溢れていた。
こうした人口の急増に対して国が打ち出したのが移民政策。
南米(ブラジル、ボリビア、パラグアイ)を中心に年間一万人が海を渡る。
ドミニカ移民船アフリカ丸が横浜港を出航(1957年)
「300タレア(18ha)無償譲渡」夢のような話に全国から希望者が殺到
選抜の結果249家族1319人がカリブの楽園へ向かう。
過剰な農村人口を抱えていた鹿児島からは約280人(全体の五分の一)
ハイチとの国境に近い七つの入植地。首都サントドミンゴから西へ200km。

 掘っても掘っても石ばかり、とても農地とは思えない荒涼とした荒地
石と石の間にわずかな土を見つけては苗を植え付けていったという。
視察に来た外務省職員には、
「3、4年経てば石も肥料になる」と言われたという。
石の小山は今も当時のまま
別の入植地では塩が地表を覆っていた。

 <日本政府が示したドミニカ移民第一次募集要領>
・「一世帯当たり300タレア(18ha)の土地が無償譲渡」
・「入植予定地は中程度の肥沃度」と記されていた。

 <移住地の実態>
・与えられた土地は実際の三分の一以下
・石や塩の不毛の荒地
・所有権は無く、耕作権のみ

 国境沿いの入植地には、同時に囚人までもが送り込まれ、
まるで収容所のような生活は、国の役人に24時間監視され続けた。
そんな入植地を移住者達は、「地獄の一丁目」と名付けた。

 自殺した日本人移民が眠る墓地(ドミニカ移民の自殺者は10人)

 ドミニカ共和国外務省:移住に関する当時の外交文書
募集開始3ヵ月前(1955年11月)
入植予定地を調査した日本外務省がドミニカ政府に送った文書
・入植地の深刻な水不足を指摘
 「灌漑施設の拡張を要求」
募集開始2ヵ月前(1956年2月2日)
・「灌漑施設を早急に整備することは不可能」
・「日本人移民の受け入れは延期すべき」

 このドミニカ政府の動きに、日本外務省は移民計画を頓挫させない為に、
移住開始の直前一ヵ月前になって公使を直接ドミニカに派遣し、
これまでの要求を撤回。

募集開始1ヵ月前(1956年2月21日)
「乾燥地帯ではあるが、日本人移民にとって栽培は容易に可能」

 ドミニカ側が約束したのは、「最大で300タレアまで」
最初から全員に300タレアを配分するという両国の取り決めは存在しなかった。
日本側の資料には土地の所有権がないことも明記されており、
外務省は移民に無償譲渡などあり得ないことも事前に知っていた。

「日本政府は入植地の劣悪な状況を知っていたはずだ」(ドミニカ元駐日大使)
彼は、国内の余剰人口を海外に送り出したい日本政府の考えに、
ドミニカの独裁者トルヒーヨ大統領のある思惑が重なっていたと分析する。
「トルヒーヨはハイチ人の侵入を防ぐため、国境沿いに日本人移民を送り、
 ”人の壁”を造ろうとしていた」
「日本政府の行った移住計画は間違いなく失敗。日本人移民を悲劇に
 追いやったのだ」(ドミニカ元駐日大使アルベルト・デスブラデル氏)

 当時、ドミニカは国境紛争の度に隣国ハイチからの侵入者に悩ましていた。
そこで目を付けたのが日本人移民。国境沿いに日本人を入植させることで
ハイチからの侵入者を防ごうと考えていた。
日本人移民は人間の盾にされたのである。

 原告団が最近、入手した「移住民と日本政府高官との対談記録」
中田弘平農業技官:移住募集開始後、現地調査を行った人物
中田弘平著「中南米紀行」:「土が深くて優秀なのに驚く」
「調査を充分にやったと私も言えません」
「私も大それた事をやったもんです」

 ドミニカ移民集団帰国(1961年)
 トルヒーヨ大統領暗殺で政局が混乱したことを理由に、
移民達を帰国またはブラジルなど他国に転住させることで事態の収拾を図る。
8割以上の家族がドミニカを去る。
外務省はこの時、移民達に旅費を支給したことでドミニカ問題は解決したとの
見解を示した。
ドミニカ残留者:47家族276人
ドミニカに残った人のほとんどは、農業を離れ、転職・外国への出稼ぎで生計
日本大使館が強力に残留を働きかけ、ある条件を提示したからだ。
「残留される方には、最初日本政府が示した条件を満たします」
「運営資金等協力します」
しかしまたしても空手形に終わった。

 JICA融資問題
現地通貨ペソが暴落した分だけ返済額が増える。
1ドル=1ペソの時、借りた資金は、現在:1ドル=45ペソと45倍。
(ペソで貸付、ドル建てで返済)

 1998年10月 衆議院外務委員会
「本年7月、ドミニカ共和国政府より日本人移住者に対し750haの土地を
 無償譲渡の用意があるとの発表がありました」
「土地は耕作地としての適性に加え、首都圏に近いことから付加価値は高い」
粘土状の赤土で、水路も無かった。現地の農民が放牧を行うだけの荒地だった。
所有権も存在しなかった。
三度目の嘘。
これが引き金となり、移住者達はこれまでの長い沈黙を破って、
国を提訴することを決意。

 2000年10月ドミニカ移民訴訟第一回口頭弁論
国側は、斡旋しただけ。手続きを行ったのは日本海外協会連合会(現JICA)、
募集内容と違う点はドミニカ政府の問題

 裁判の最大の争点は、移民政策が国策かどうかという点。
裁判は長期化、平均年齢が80歳を超える移民一世達は次々と亡くなっていった。

 2004年2月、ドミニカ移民訴訟第17回口頭弁論
日本海外協会連合会(現JICA)元職員若槻泰雄氏は、
「日本の移住政策は国策以外の何者でもない」と初めて訴える。
「斡旋ではなく、契約の当事者」
「要するに予算を獲得する為、予算を減らさない為、組織を拡大する為、
 組織の縮小を防ぐ為に移民を送った」
「こういう役人は自分の為には、国家・国民を犠牲にしても恥じない。
 ドミニカは典型的な例」

 最近見つかった外交電信に「国策」の文字がはっきりと記されていた。

 2004年3月、参議院予算委員会:小泉首相
「過去のこととはいえ、外務省として多々反省すべきことがあった」
「今後、このような”不手際”を認め、移住者にどのような対応ができるか
 考えたい」

 戦後の移民史上最悪のケースとまで言われるドミニカ移民問題。

 2004年5月20日 進行協議会
「首相の発言は法的なものではなく、和解の意思はない」との見解を示す。

 参議院予算委員会:川口外務大臣
「政府としては責任はないという立場から司法の場で議論」

 2004年7月 第18回口頭弁論
現地調査を行った外務省元職員林屋栄吉氏出廷
「国の移住政策の正当性を主張」

移民一世達の平均年齢は80歳以上、既にその三分の一が無念の想いを残し他界。

 ドミニカの日本人学校約千人が通学。

「そこに楽園は無かった」ドミニカ移民苦闘の半世紀:(FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品)