経済学

 「資本論への私の歩み」(現代思潮社)の著者、梯明秀(かけはし あきひで)は、
戦前の京都大学で西田幾多郎、田辺元に直接教えを請うた人です。
経済哲学という分野を、公認マルクス主義=スターリン主義者から完全に無視され
つつ、殆ど一人で開拓してきた人です。孤高の道を歩んだ人です。
 戦後は、京都大学、同志社大学、立命館大学で経済哲学を講義しました。
 
 ヘーゲルの哲学体系には、その根幹として、「論理学」という分野があります。
岩波文庫「小論理学」、岩波「大論理学」として集大成されています。

 ところで、マルクスは資本論は残しましたが、「論理学」という書物は残していま
せん。しかし資本論を書いている、その背後にマルクスの論理学がある筈なのです。
梯は資本論を通して、その背後にあるマルクスの論理学に迫ろうとしたのです。
 資本論を叙述しているその背後に、その論理学がある筈なのです。
 梯の目指したものを一言で言うと「資本論を論理学として読む」ということです。


 私が梯から学んだのは、資本論に向かう根本的な姿勢です。
今では大学でマルクス経済学(略してマル経)は、もう全然流行っていないようです
が、かつては隆盛を誇っていました。しかし、資本論を知識として、お勉強として
学ばれていたと思います。そうではなく,資本論冒頭の第一章商品とは、
知識の対象ではなく、労働力を商品として売るしか他に生きるすべの無い、
他ならない己自身のことなのであり、己が何故労働力商品にまでなってしまった
のかを、論理的に、そして歴史的に、自覚する書物なのだということを学びました。


 で、梯経済哲学の入門書として最適なのが、この本です。

 第一部 Uでは、
 当時、経済学は経済学者に、自然科学は科学者に、哲学は哲学者にという風に、
分離されていました。資本論は経済学だから、経済学者にしか論じられないと。
しかし、梯は全自然史の中の人間史のその資本主義の段階という風に考えます。
「全自然史」では、自然科学を論じました。(「物質の哲学的概念」)
そういう分業化するという『常識』そのものに反抗しました。
(しかし各学会はこれを完全に無視しました)
(全自然史:宇宙史的段階→生物史的段階→社会史的段階)

 Xでは、学ぶ場合に「何よりもまず大切な本質的なことは、現実の問題を
 自分の日常生活における自己矛盾において感得し、これを自らの反省的思惟に
  よって打開してやろうという積極的な熱情を持つこと」

 Y 「ある講義ノートへの跋文」では、梯の同志社大学での講義をノートした学生
     が、それを印刷し出版する際に梯がその跋文を書いたものです。
      こんな学生がいれば先生も嬉しいものでしょうね。


 第二部Tがこの書の白眉です。
いくつかの用語についてはちょっち説明しておいた方がよいかもしれません。

・観念論:世界の統一原理は精神であるとする立場
・唯物論:世界の統一原理は物質であるとする立場
・表象:観念(=頭の中)での対象
・実在:物質世界に存在しているもの

・感性:感覚を通して感じ取る
・悟性:区別する、分析する、
・理性:総合、統合する
これら三つはヘーゲルとマルクスがよく使う用語です。
感性は感じ取り、悟性は区別し、理性が総合すると言われます。
  ただ、この三つは、人間が何かを認識する場合に三つとも同時に働いているので
す。ある段階では、ある一つが主に使われているということはあるでしょうが。
これに構想力を加える場合もあります。

・認識論:具体(現実)→抽象(本質):帰納
・存在論:本質→現実         :演繹

    現実               :正  即自的(ansich)
     ↓ :認識論(下向的分析)
    本質               :反  向自的(fursich)
     ↓ :存在論(上向的総合)
    現実               :合  即且向自的(an und fursich)

 この三段階(トリアーデ)がヘーゲルの論理体系に対応します。
有論、本質論、概念論。(自然哲学、精神哲学、論理学)
 現実から本質へと人間認識が深化します。(武谷三段階論のように)
掴み取った本質から、もう一度現実を「捕らえ返します」
(マルクスは「ここから後方への旅が始まる」と表現します)
本質を媒介した現実は、最初の現実ではありません。
豊かな規定性を持つ、豊かな現実です。(本質を媒介しているので媒介的同一性)
ちなみに、これがヘーゲルが目指したキリスト教の教義=三位一体論の哲学的基礎
付けです。聖書の「最初のものが最後のものであり、最後のものが最初のものであ
る」ということです。

・<認識主体>:Subject
・<認識>対象:Object
 認識主体=観る自己が、認識対象=観られる自己を認識しようとする、認識対象
が、観られて、こういうものだと対象的に認識される。更にそういう観る自己とは
何かと考えると、観る自己は、更にどこまでも後退する。とは西田哲学の考え方。
「行為的直観の立場」とは、主客の対立のもとで、実践的に努力せんとする主体の
観念に当為(為すべきこと)がプラトンのイデアのように直感されるという西田哲学
それを主客の物質的対立において、客観的対象を変革せんとする立場=実践的立場
に立つ者に、当為が直感されるとするのが梯の「実践的直感の立場」

・「捨象」と「抽象」について
 カントは「物それ自体」は認識できないとしました。人間の認識諸能力にとって、
時間と空間は超越的存在=アプリオリだから。
 ヘーゲルは、「物それ自体」が単体で存在しているのではない。諸関係を取り結ん
でいる、その総体である。したがって、諸関係全てを認識すれば、それが即ち
「物それ自体」を認識したことになるのだと。
 「物それ自体」が単体で存在している訳ではありません。様々な諸関係に於いてあ
り、その諸関係の総体だと思います。
マルクスは、「人間とは社会的諸関係の総体(アンサンブル)」だといっています。
さて、諸関係を一挙に全て同時に語ることはできません。
 従って、一つの関係性を論じる場合、他の諸関係は、差し当たり横に置いといて、
ということになります。
これが「捨象」です。切っても切り離せないものを、差し当たり、カーテンを掛けて
見えないようにしておく、ということです。
 「捨象」するとは、同時に「抽象」が起こっている訳ですね。どちらから観るかの
違いですね。

 例えば、明治維新を論ずる場合に、当時の<国際的側面>と、経済的な発展段階と
いう<国内的側面>という二つのモメントがあり、その二つのモメントは複雑に
絡み合っていて、切り離せない訳ですが、一挙に全てを論じられないので、
取り合えず、片方のモメントを捨象して=他方のモメントを抽象する訳ですね。

 ・規定性について
 規定性とは、場に於いて受け取るものです。
 例えば、親との関係性に於いては、子。
 クラスに於いては、一生徒。
 下級生との関係性に於いては、先輩とかという規定性を、
主体的に選択するのではなく、その場、その場に於いて、
受け取ります。
 
 ・ 社会科学的な眼を作る
   現代世界を見抜く、社会科学的な眼を是非作って下さい。
その為の一助として、社会科学の本を読むことが必要です。