唯物史観

 「唯物史観と現代」(岩波新書:絶版)について語らせて下さい。

 著者の梅本克己は、戦前の京都大学=京都学派の西田・田辺哲学の徒です。
しかし戦後はその観念論哲学から唯物論哲学へと脱皮しました。

 ・主体性論争は、戦争責任についての論争でもありました。
 また、社会的実践に立ち上がる人間の「決意成立の場面」について論じるのを
 スターリン主義は、これを「小ブル的偏向だ」と無視しました。
 しかし、一個の人間が「歴史的使命を自覚し、実践に立ち上がる時に、
決意成立の場面がある」と私は思います。
 梅本克己は、「過去から送られ、未来をはらむ、場所的現在に於ける」「永遠の
今」という西田幾多郎の言葉を使いながら、「歴史の中の人間」という風に、
人間を外から眺めるスターリン主義に対して、「人間の中の歴史」を論じ、
その「決意成立の場面」を論じたのでした。


 さて、「唯物史観と現代」についてですが、
T.「唯物史観と現代」では、唯物史観は、あらゆる出来事を、その歴史性に於い
て把握する、ある歴史的に特定の発展段階において、つまり出来事の歴史的
被限定性において把握するということです。

U.「唯物論と自然」では、唯物史観とは唯物論に立脚した歴史の観方であること。
 マルクスの「経済学批判序説」のその公式 いわゆる経済的下部構造(生産関係)
が、政治的等の上部構造を規定するということ。
 例えば、現代では「自由は当たり前」の価値観ですが、ついここ数十年前までは、
当たり前ではなかったですよね。つまり価値観だって、ある特定の歴史的発展
段階におけるものだということです。それと、あくまで「規定」されるだけであっ
て、「決定」される訳ではありません。よく「経済決定論」だという恣意的な批判が
あるので。
 近代市民革命も封建社会内部での資本主義の発展という経済的基礎があって
始めて、資本家と労働者という担い手、思想やイデオロギーとしても、準備された
ものだと思います。

V.「哲学の改造」
1.「唯物論と人間」
「人間的感性の本質」
ドイツのヘーゲル学派(左派)のフォイエルバッハは、
・人間は(客観的)対象に於いて、自分自身を(始めて)認識するということを
明らかにしました。
 対象、例えば他の人に於いて、他者を自己を映す鏡とするということですね。
 <他者に映った自己>を観ることこそが、始めて<自己を認識する>という
ことですね。

 次に「対象化」とは、「外化」つまり、人間の内部のものを、外に出すことです
ね。芸術等、人間実践の本質ですね。
 例えば、文章を書き出すと、途端に、あれっ!! うまく書けないや、実はよく
分かってはいなかったんだということが、始めて分かりますよね。
(私なんかは、今、そう思っている真っ最中だったりしますが...)
・自己対象化は、人間実践の本質であること。
・しかし、現実社会では、自己対象化が自己喪失となってしまっていること

2.「唯物論と実践」
 「ヘーゲル法哲学批判」「ユダヤ人問題によせて」(岩波文庫)
 の中で、マルクスは、ユダヤ人の解放は、「人間の政治的解放」にとどまらず、
「人間の人間的解放」でなければならない、としました。

W.岩波文庫の「経済学=哲学草稿」の中で、
 「疎外された労働」
・労働者は生産物から疎外される
・労働者は人間から人間を疎外される
・疎外された労働は、人間から労働を疎外する
 「労働は自分自身と労働者とを商品として生み出す」

 「疎外」とは、対象化したものが、返ってこないということです。
人間実践の本質たる対象化、対象化して自己自身に返ってきてこそ、
自己確認できるのに、それが返ってこない。
 
 「人間と労働」
 人間は自然に働きかけて、生きている。動物もそうですが、その働きかけ方が、
人間的である。労働による対象的世界の実践的産出こそ、人間の類的本質である。
「人間的感覚(五感とか)は、人間化された自然(人間の労働生産物)によって、
はじめて形成される」 そういう意味で「五感の形成は全世界史の労作である」
 つまり、人間的感性の対象さえも、人間労働によって作り出されたものですね。
しかるに、人間の類的本質たる労働が疎外されてしまっているということです。
宇野弘蔵も「本来商品ではない人間労働力が商品になってしまっている」という
論じ方をします。

X.「唯物史観の成立」
 「ドイツイデオロギー」や「資本論」に、アリや蜂やビーバーは職人が赤面する
くらい優れた建造物を作る。しかし、人間は事前に頭の中で、観念的に設計図を
描く、つまり頭の中=観念的表象をイメージできる。
 そしてそれを、目的意識的に=合目的的に実践する。
 これが人間労働の本来の姿である。しかしそれが逆転=疎外されてしまっている。

 ただ、「疎外された労働」の否定を通じて「疎外されざる労働」=人間本来の
労働・実践をつかみ取った訳ですね。
 
 「人は生まれながらに鏡を持って生まれてくるわけではない。
だから人間パウロは人間ペテロに自分を映してみる」
 資本論第一章の商品の章での言葉です。
商品Aは、自己と交換関係にある商品Bのその使用価値(使える値打ち。
ペンなら書けるとか)に於いて、自己を始めて知る。
 人間Aも、他者=人間Bに於いて、自己を認識するということですね。
<自己>が<自己にあらざる他者>に於いて<自己>を観るということですね。



 マルクス主義は、ともかくとしても、若きマルクスの歩みは、是非追体験して
欲しいと願います。
 岩波文庫の「経済学=哲学草稿」と「ドイツ・イデオロギー」という二冊は、
「経哲」「ドイデ」と略されるくらい有名な本です。
 いきなり原典を読むのは、少しキツイので、ハンガリーの哲学者、
ジョルジュ・ルカーチの「若きマルクス」(ミネルヴァ書房)という本が絶好の書物
なんですが、現在は入手困難です。ルカーチの「若きヘーゲル」とともに、この
二冊は歴史的名著です。(私は一冊ずつは持っていますので、貸すことはできます)
 ちなみにルカーチは、ソ連の戦車によって圧殺された1956年の
『ハンガリー事件』『ハンガリー動乱』(二重括弧に注意!!)の時の文部大臣です。
 トロツキーは、「ソ連圏における第二革命」を目指したんですが、
トロツキー流に言うと「ハンガリア革命」と呼ぶべきですし、私もそう言います。
(ちなみにトロツキーはスペイン革命と呼びます)
 歴史の教科書には、決して「ハンガリア革命」なんて書いてないんですが、
たった一つの歴史的事件をどう捉えるのかさえ、個人の価値観が問われるわけ
ですね。

 若きマルクスの一連の著作は、学問的には「初期マルクス」(略して初期マル)
と言われ、今後何度か目にすることにもなると思います。
 「自由からの逃亡」(Escape from freedom)で有名な社会心理学者の
エーリッヒ・フロムも初期マルクスは評価していて
「初期マルクス:経済学・哲学草稿について」という本を書いています。
日本でも新書版で出ています。



 「疎外」や「商品」という言葉は私にとって、知的興味の対象ではありません。
お勉強の対象でもありません。知識としての言葉ではありません。
 他ならないこの私自身が、この社会=資本主義社会では、一個の商品と
されてしまっていること。この私自身が日々疎外を味わわされていること。
商品とはこの私のことなのであり、私とは商品なのです。
疎外とはこの私のことなのであり、私とは疎外なのです。
このことこそが私を、これらの追及に衝き動かすものなのです。