ジョージ・オーエルのカタロニア賛歌について、少し述べさせて下さい。

 ジョージ・オーエルは、「動物農場」、そして特に「1984」で有名です。
私は「1984」は原作は読んでいませんが映画では観ました。
強烈な全体主義批判の作品です。
オーエルにとって全体主義とは、ファシズムだけではなく、ソ連のスターリン主義をより告発しています。
カタロニアでの彼の経験がそれを生み出したのです。
 
  1930年代、イタリアでムッソリーニが、ドイツでヒトラーが権力を奪取し、
世界にファシズムの嵐が吹き荒れました。
それに対抗してフランスと スペインでは反ファシズム人民戦線内閣が成立しました。
人民戦線とは社会党と共産党、その他の左翼、更にブルジョア民主主義諸政党との連合です。
(悪く言うと野合です)
スペインの軍部のフランコ将軍が中心となってスペインで反乱を起こし、内乱が勃発します。
それに対して人民戦線政府を助けるために全世界から約4万人もの義勇兵が参加します。
反ファシズムの戦いとして。オーエルもその一人でした。
全世界の心ある人々がファシストと闘う為に結集する。
ピカソはドイツ軍によるゲルニカ爆撃を糾弾する絵画を描きました。
確かにそこまでは非常に美しいです。感動的です。人間をまだ信じることができました。
しかし...

 オーエルが配属されたのはトロツキーの影響のあるPOUMという組織でした。
彼はPOUM人民軍としてファシストと戦います。
しかしその後何と、政府はPOUMを非合法化し、ほぼ全員を逮捕します。
ファシストと対峙し、戦っている真っ最中にです。
主要な指導者は秘密裏に虐殺されました。政府によって。
弾圧はその後、アナーキスト組織にも及びました。
政府の中の共産党が弾圧の張本人でした。
オーエルは危機一髪のところで国外に逃亡できました。
以上の生々しい記録が「カタロニア賛歌」です。

  では、何故共産党主導の政府は、同じくファシストと戦う仲間を弾圧し、圧殺したのでしょうか?

  スターリンは「一国社会主義」を唱えました。
スターリンにとって各国共産党はその支部にしかすぎません。
自分の利用できる手足にしかすぎません。
ソ連をヒトラーから防衛する手段として使ったのです。
当時のソ連はヒトラーから自国を防衛することを最優先し、帝国主義国の米英仏と軍事的に同盟し、
その同盟関係を崩さないように、各国の共産党に自国の資本家と闘うなと指導しました。
当然それに反発する左翼勢力が生まれました。
それが、アナーキストであり、トロツキー派でした。スペインでも同様です。
スペインにはアナーキズムの伝統もありましたので、アナーキスト系の労組が最大の組織でした。
共産党系の労組はありませんでした。
社会党系の労組に急遽潜り込んだだけです。
しかもその労組は、はるかに小さかったのです。
しかしソ連の軍事援助はヒモ付きだったのです。
軍事援助の見返りに共産党の強化と他の左翼の弾圧を要求しました。

  スターリンのもう一つの戦略は「二段階戦略」です。
スペインでは、まずは民主主義革命が必要であり、労働者の革命はその後だと。
しかしカタロニアでは既にアナーキスト系労組CNTとPOUM系が既に権力を握っていたのです。
にもかかわらず、労働者の勝ち取った諸権利を奪い取り、それを資本家階級に戻したのです。
労働者の党といわれる共産党がです。

 私は、別にどの政治勢力だけが正しいとは思いませ。
しかし、反ファシズムの様々な政治諸勢力が、政治的意見や立場の違いはあっても、
ファシストと闘うという点では、共に歩めるはずです。
ましてや、ファシストと戦っている真っ最中の対立党派を非合法化し、
弾圧し、虐殺するという共産党には怒りを覚えざるを得ません。

 トロツキーは「別個に進んで、一緒に撃て」と言いました。
全く正しいと思います。
ただ、私はトロツキーは尊敬していますが、トロツキー主義者ではありません。
メキシコの亡命地でスターリンの放った刺客に暗殺されるその瞬間まで、
スターリンと闘ったトロツキーを尊敬せざるを得ません。
しかし偉大なる創始者の後の後継者は、偉大だとは限りません。
偉大なる創始者の一言一句をただ繰り返すだけの後継者には、創始者が
目指した精神の真髄や衝き動かしたパトスが、真に受け継がれねば
ならないのですが、それがとっても難しいですね....

 オーエルの実体験したことは、第二次大戦後の東ヨーロッパでより残酷に再現されます。
まず、戦争終結直前のポーランドです。
私の尊敬するポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダという監督がいます。
代表作は「灰とダイアモンド」「地下水道」「鉄の男」「大理石の男」等です。

  大戦勃発直後、そもそもポーランドはドイツとソ連によって半分ずつ分割占領されるのです。
ソ連はヒトラーと一緒にポーランドの東半分を軍事占領したのです。
それ自体ポーランド民衆への裏切りです。
ソ連の意に染まない勢力は文字通り抹殺されました。
(ポーランド軍将校の大量虐殺がカチンの森事件です。)
大戦終了間際、ドイツ軍がまだポーランドの首都ワルシャワを占領していた
のですが、ソ連軍が段々迫っていました。イギリスにあった亡命政府は、
このままソ連軍にポーランドをドイツ軍から解放されたら、ポーランドはソ連の
軍事支配下に入ると正しくも考えました。
その為、ソ連軍にワルシャワを解放される前に自力で武装蜂起をワルシャワ民衆に訴えました。
ワルシャワの民衆は武器を持ち、立ち上がりました。
しかし、圧倒的なドイツ軍の軍事力の前に壊滅的敗北を蒙りました。
一部の人々は地下水道に逃げます。その出口では鉄の柵があり、出口なしでした。
その川の向こう側の風景を映し出す....
 ...これが「地下水道」のラストシーンです。
その川の対岸にはソ連軍が実はもう到着していたのです。
ソ連軍はワルシャワの民衆が虐殺されるのを待っていたのです。
米英仏の帝国主義国側の影響力のあるワルシャワ蜂起が成功すれば
戦後のポーランドで彼らに政治的主導権をとられてしまうと正しくも考えたのです。
米英仏とソ連の政治的対立...
そのためにワルシャワ民衆は、米英仏から政治的に利用され、ソ連から見殺しにされたのです。

 その地下水道を這い回った残党の一人が、「灰とダイアモンド」の主人公マチェックです。
彼は戦後のポーランド共産党幹部を暗殺します。


 同様の悲劇はギリシャでも起こりました。
「旅芸人の記録」(アンゲロプロス監督)という映画がありました。
第二次大戦後の世界支配をヤルタで取り決めた米英仏ソ。
ギリシャはイギリスのものとスターリンは確約しました。
ユーゴでドイツ軍と闘ったパルチザンのリーダーであるチトーがユーゴの
権力を握ったのですが、ギリシャでも対独パルチザンが優勢で戦後の
ギリシャをパルチザン=左翼が権力を握ってしまいそうでした。
そこでスターリンは軍事援助を止め、イギリス軍がパルチザンを殲滅するのを
黙ってみていました。
パルチザン残党は山岳地帯に逃れ、絶望的なゲリラ活動を続けます...


  実は同様の悲劇は戦後の日本でもあったのです。
戦後の共産党の指導の誤りによって、多くの純粋な若者達が悲劇を味わわされたのです。
柴田翔の「されど我らが日々」
高橋和巳の「憂鬱なる党派」「日本の悪霊」
大島渚の「日本の夜と霧」

 悲劇的なことなら無数にあります。
私が言いたいのは、悲劇一般ではなく、歴史を前に進めようとしている者達の間での悲劇です。
 人間は先人の遺産を引継ぎ、歴史をほんの少しずつ前に進める。
それが人間の本質の一つだと思っています。
歴史を前に進めようとするという人間的な美しい営みが、しかし悲劇を味わうという、
そういう意味での悲劇が私にとっては、本当に悲劇です。

例えば、惨憺たる歴史にも目を向ける。
少なくとも、その事実だけでも知る。
それについて想いを巡らせ、咀嚼し、思い悩む...
例えばそんなことも貴重な人間的価値だと私は思います。

「カタロニア賛歌」について